日付のあるノート、もしくは日記のようなもの(6) 頭のなかの闇(その2)――3月16日から4月19日|田中功起

初出:2021年4月21日刊行『ゲンロンβ60』

 2018年の夏、ぼくはホノルルの高層マンションで生活をしている。

 

 文化交流使という文化庁の事業があるんだけれども、ぼくはそれに選ばれた。文化交流使事業には日本文化を海外発信するという目的がある。例えば伝統文化についての実演やポップカルチャーについての紹介などが主なので、幅広く、いわゆる芸能人も選ばれたりする。ところでぼくの場合、発信すべき日本文化の「何か」を持ち合わせていない。ずいぶん前から話をもらっていたけど、最終的にぼくから提案したのは日系移民史についての調査をするということだった。ハワイからはじまり、アメリカ西海岸、そして最後にはブラジルに行くという日系移民が辿った道程をなぞる調査計画を立てた。

 ぼくが移民史のなかでも特に興味があったのは、太平洋戦争下での日系人強制収容についてである。よく知られているように、当時の大統領令によって、アメリカ本国も戦争状態にあるとされた。これによって在米日本人を含む日系アメリカ人(つまりアメリカ市民であるにもかかわらず)を敵性外国人と認定し、強制退去が命じられた。日系人たちは競馬場などに集められ、そのあと砂漠に建てられた簡易の収容所へと送られていった。有名なのはカリフォルニアにあるマンザナー強制収容所。いまそこに行くと博物館があり、当時の様子を再現したバラックも建てられている。戦中の日系人部隊の活躍や戦後の日系人の政界進出などによって、アメリカ西海岸に点在した収容所はアメリカ史のなかの汚点として、けれども頻繁に語られてきたと思う。ぼくもロサンゼルスに住んでいたときに全米日系人博物館やマンザナーを訪ねた。

 日系人が人口の約3分の1を占めるハワイにも収容所があったという事実はあまり知られていない。太平洋戦争当時、日系人の割合は40%を越えていた。ハワイにおいては数が多すぎてすべての日系人を収容できなかった。だから地域の指導者を中心に、一部の人々だけがターゲットにされた。それは不当な理由による強制収容だったにもかかわらず、日系コミュニティのなかではある種の「恥」として認識され、人々はその後、多くを語らなかったらしい。しかし近年になって、ハワイの自然のなかに埋もれてしまった収容所跡の発掘調査が行われ、2015年、そのひとつであるホノウリウリ収容所跡地が国定史跡(National Monument)に指定され、2019年には国立史跡(National Historic Site)となる。不当に収容された当時の人々への名誉回復の意味合いも強かったと思う。ぼくのハワイでの目的はこの収容所についての調査と、移民史研究者などへのインタビューだった。

 

 ぼくのプロジェクトのひとつに日本における在日コリアンに対するヘイトを題材にしたものがある。アメリカでの日系人に対する差別を調べているのも、「差別をする/される」という立場が地域によって入れ替わってしまうところからヘイトの問題を考えることができるんじゃないかと思っているからだ。もちろん文脈はまったく違うから簡単には接続できない。こうした比較はアカデミックな研究においては難しいかもしれない。でもアートの手法としては可能性がある。歴史を参照し、別々の事柄を結びつけ、現在の問題を逆照射する。現代美術の手法のひとつである。例えば現代美術が美術史に対峙するときの態度にはこの方法論が多用される。アーティストは美術史オタクのようなものだから、すぐに過去のアーティストとか古い作品とかの話をしたがる。歴史のなかに、無関係に見えていたもの同士の繋がりを見つけ、なかば強引な再解釈をすることで、美術史を更新してきたと思う。ぼくはそうした(少しいいかげんで、でも自由な?)方法論でもって過去と現在の社会(問題)を見直すこともありなんじゃないかなと思うのだ。

 

 調査にだけ専念し、作品として結果を残すことを気にせずに生活することは、「調査→制作→作品」といういつものサイクルから少し離れることでもある。ハワイの生活はそういう意味ではのんびりとしたものだった。久しぶりのアメリカでの運転も、大自然も、大きなハンバーガーやマカデミアナッツ・ソースがたっぷりかかったパンケーキも、雑多なショッピング・モールも、どれも楽しかった。マウイ島の海岸すぐのホテルに滞在したときは、明け方のひんやりした砂浜を裸足で歩いて……、いや、待て、ちょっとトーンが違いすぎる……。今回は前回の続きだったよね? ええと……、ぼくは…、そうそう、脳血管の詳細な状態を調べるため、カテーテルを使った脳血管造影検査をするところだったかな。それなのに、なぜハワイ?

 まず確認しておくべきは……、右脳の血管はこのハワイ滞在時点でもまだ詰まっているということ。ついでに言えば、いま、この原稿を書いている瞬間も詰まっているんだよね、結局のところ……。

 

 脳血管造影検査はMRIやCTなどでは撮影できない細かな血管の状態を確認するための検査で、そのためにカテーテルという細い管を使って、造影剤(薬剤)を血管に注入する。造影剤が血管内に浸透することによって細かな血管もX線撮影できるようになるわけだ。カテーテルは腕や足の付け根などにある動脈から入れるんだけど、これには技術がいる。この検査によって稀に血管を破損したり、脳梗塞をひき起こす可能性もあるからだ。

 日本で脳ドックを受けた最初の病院はちょっと心配だった。医師の動揺した雰囲気を妻に伝えると彼女は不安になり、カテーテルを使った検査も含めて脳外科手術に精通している医師にセカンドオピニオンを求めようと提案してきた。そうやって彼女が検索して見つけたとある関西の大学病院。連絡をし、行ってみることになった。これはハワイに行く少し前のこと。あまり事情がわかっていなかったけど、そもそもセカンドオピニオンを聞きに行くということは医師を変えるということを意味していたらしい。その大学病院の医師は、症状を見て、すぐに私が引き受けます、と言ってくれた。安心感がある。そのままもう一度念のためMRI検査をして緊急性がないかどうかを調べた。しばらくは大丈夫だろうということだった。検査はハワイから帰ってきてから。合併症の可能性もあるから一泊での検査になる。

 

 ハワイに行く前に友人たちに会った。自分の右脳の状態を伝え、もし何かあった場合は作品整理や資料整理を頼むかもしれない、と言付けた。

 そうしてぼくはハワイに行く。

 

 2018年の夏、ぼくはホノルルの高層マンションで生活をしていた。

 遠くにダイヤモンドヘッドがちらっと見え、ベランダから身を乗り出せば海も見えた。そうしたハワイの光景とは裏腹に、ぼくは頭のなかに暗闇を抱えながら生活をしていた。遅かれ早かれ手術をすることになる、という予感はあった。

 高層マンションの小さなキッチンで、日系スーパーで買ってきた食材で味噌汁を作った。豆腐はたしかアロハ豆腐というブランドで、蜂蜜をかけてそのまま食べてもおいしい。もういまとなっては理由を思い出せないけど、些細なことをきっかけとして妻とケンカをした。そしてできあがった熱い味噌汁の入った鍋を床に落とす。いま思えば二人ともやけどしなくてよかったよね。ぼくは確かに怒りっぽいところもあるけど、ちょっとこれはどうかしている。感情が押さえ切れていない。自分でもわからないぐらいに気持ちが揺さぶられ浮き沈みが激しかった。感情の揺れがカテーテル検査と手術の可能性への不安からくるものだったということは、ずいぶんあとになってわかった。自分の心の機微をあまり理解できていなかったんだと思う。

 

 前回、アネマリー・モルの「ペイシャンティズム」という考え方を紹介した。簡単にふり返ると、患者の権利を健常者と平等にしようという考えではなく、病気と共にあるということを基礎にして社会を再構築しようというのが「ペイシャンティズム」である。ここから派生的に考えたことがある。英語の「victim(あるいはvictimization)」との関係だ。「victim」は被害者や犠牲者と訳されるけど、もう少し幅広い。患者もときに含まれる。でも患者であることは被害者とイコールではない。病気には必ずしも加害行為があるわけではないからだ。ぼくの脳血管の状態は、そもそも生まれつきだったのかもしれないし、年齢と共に徐々にこの状態になったのかもしれない。それはわからない。自分でも知らないころから、ぼくはずっとこの病気と共に生きてきたようだ。つまりのこの状態はぼくにとっての普通だったととらえるべきである(例えば半年ごとの検査はぼくの今後の人生にとってデフォルトだということだ)。ペイシャンティズムは、そのようにして病気と共にある生活からスタートする。それは「病気であること」を、例えば同情を誘うようなものとしてみなさないということだ。

 なんでこんなことをここに挿入するのかというと、ぼくは自分の手術について、被害者ポジションから語りたいわけではないのだ。被害者ポジションを取ることは、批判しにくい状況をつくることでもある。同情を誘うことによって周囲を味方につけ、被害者という非対称な立場に自らを置くことで倫理的なプレッシャーを相手に与える。相手は何を言っても悪者に見えてしまうから、何も言えず、正当な批判さえ封じ込めることができる。

 ぼくは力を持った人々がそうした被害者ポジションどりをすることに違和感がある。少し迂回してこれについて書いてみよう。

 

 京都市京セラ美術館で行われている「平成美術 うたかたと瓦礫デブリ」を見てきた。

 企画監修をしたのは美術評論家の椹木野衣。ぼくにとって椹木さんは『シミュレーショニズム』と『日本・現代・美術』という二つの重要な本を書いたひとで、学生のころに何度も読み返した。彼が久しぶりに大きな展覧会を企画するということで楽しみだった。それも1989年から2019年、平成の30年間をふり返る、令和になって最初の美術展覧会だなんて。10年単位で美術の動向を区切っていく従来の方法を30年というスパンに切り替えたのは興味深い試みだし、自然災害の多い日本という土地に対応した、オルタナティヴな美術史を構築しようという狙いも彼らしい着眼点だと思う。いままでの彼の思考と、関わってきたアーティストたちが一堂に会するこの展覧会は、60歳を目前にした椹木さんにとっての、集大成なのだろう。

 この企画は、アーティスト・コレクティブを参加者としながらも、「集団 group」ではなくあくまで「集合 set」(離散と集合をくり返すうたかた/バブルと、瓦礫/デブリをメタファーとして)という曖昧なカテゴリーにすることで、コレクティブの定義を良くも悪くも拡張している。それによって例えば「突然、目の前がひらけて」という、2015年に行われた展覧会も拡張されたコレクティブとして参加している。これは朝鮮大学校と武蔵野美術大学、双方の学生たちが大学同士の間にある塀を乗り越え実際に橋をかけ展覧会を実行する、という企画だった。厳密には、継続してグループとして活動する「コレクティブ」ではない。他の参加コレクティブであるパープルームや、かつてのテクノクラートと同列に扱うのは多少無理があるかもしれない。それでも、この「平成美術」のなかに「突然、目の前がひらけて」があったのは唯一の救いだった。

 ほとんどのコレクティブは男性主体であり、なおかつ椹木さんの旧知の仲の人々が多く選ばれていた。展覧会全体は、ホモソーシャルな内輪の雰囲気が充満していて、公立美術館で行う展覧会としては公共性があまりにも無視されていると思う。平成はそんな時代だったろうか。むしろ彼に他者やジェンダーの意識がなかったということかもしれない。「突然、目の前がひらけて」がそのなかにあったのはよかったけれども、言ってみれば「在日コリアン」というエスニシティと、「ジェンダー」の両方の問題を「突然、目の前がひらけて」に担わせてしまった。むしろ、囲い込もうとしたと言ってしまってもいいかもしれない。

 平成の30年間、ぼくもその30年を生きてきたはずだけど、ここに展開するアートはなぜか遠く感じた。少なくともここにはぼくの居場所はない。

 

 同じころに映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」を見た。総監督の庵野秀明は60歳、椹木さんは58歳と同世代である。25年という時間を経て語り直された物語は感動的だった。「エヴァ」という呪縛に取り憑かれた、すべてのキャラクター、オタクたち、ぼくのような浅い観客、そして庵野自身をも「エヴァ」から解放する圧倒的な幕引き。「平成美術」が内向きだったのと対称的にこちらは外に開かれていった。「平成美術」は椹木さんの書籍『震美術論』がベースになっている。それならば、「シン・エヴァンゲリオン」も参照しつつ、「震・平成美術」とか「シン・平成・美術」とでもすればよかったのかもしれない。そうすれば、それは「平成」全体を回顧するという大げさな身振りではなく、あくまでも個人的なものになっていただろう。それならひとつの思い出話として観客は聞くこともできたかもしれない。あるいは内省によって自己批評性を獲得し、他者を見つけ出せたかもしれない。

 

 この展覧会にはさまざまな問題がある★1

 けれども、ここでは日本を自然災害の国であるととらえるという視点だけに着目する。災害の国であるということは、つまり自らを被災者/被害者ポジションに置くことを意味する。

 これがどうして問題なのか。「平成美術」にはジェンダーの意識も、エスニシティの意識も希薄だった。逆に言えば災害が優先されることで、自ずと他の問題は手つかずになったのだろう。在日コリアンをめぐる問題は日本の戦争加害の問題に直結する。しかし災害のメタファーは日本を被害者として固定化し、別のポジションからの(例えば加害者としての)語りを封殺してしまう。椹木さんは日本の現代美術を、その災害のメタファーによって被害者化する。世代が変わるたびにリセットされ、一からやりはじめる(とされた)日本の現代美術。災害によって何度も建物を建て直すことと、それは同じようなものとして描かれる。被害者としての現代美術、椹木さんはそれを「悪い場所」と呼んでさらに強固なものにする。被害者ポジションは周囲からの批判をはね除け、自己批評性を失い、流動性がなくなっていく。しかしことはそれで終わらない。被害者ポジションへの固定化(あるいは「悪い場所」という固定化)はさらにやっかいな問題にも繋がる。ナショナリズムである。体制批判であったオルタナティブが結果的に権威になり保守化することはよくあるのだが、「平成美術」はそれ以上の状況をぼくたちに突きつける。

 

 じつはこのように考えたのにはきっかけがある。同様の問いは、とある学生から受けたことがあった。以前、韓国系カナダ人の大学院生から連絡があり、彼女の論文のためにインタビューを受けたことがある。彼女は自分の調査のためわざわざ京都のぼくのスタジオを訪ねてきた。インタビューの最後に彼女は次のような意味合いの問いをぼくに投げかける。災害についてのあなたのアートは人間的な共感を誘発します。しかしそれは日本人にとって、あるいは日本政府にとっても、都合がいいものかもしれません。なぜなら災害によって日本は被害者としての立場を取ることができます。これは歴史認識をめぐる争いのなかでも、(アメリカとの関係において)戦争被害者としての立場を取ろうとする日本にとって親和性が高い。つまり災害についてのアートは被害者としての日本の立場を強化する。それはナショナリストに利用される可能性がありますよね? 人間的な共感を誘う被害者としての立場を免罪符にして加害の事実を棚上げし、ナショナリストに都合よく利用されるかもしれない。もちろんあなたのアートはナショナリズムとは無関係かもしれない。でも関連づけられてしまう可能性も否定できないと思う。

 インタビューの現場では彼女の問いかけはもうすこし曖昧だった。メールで改めて聞き直すと、ここに書いたような内容のことを送ってきてくれた。それ以後、ぼくの部屋には彼女のメールがずっと貼ってある。

 

 ぼくは「平成美術」を見ながらこの問いを思い出していた。昭和天皇の即位を記念して作られた日本でもっとも古い近代的な美術館、それも帝冠様式という戦前の建築様式が使われている美術館で、平成という元号をもとにした美術展が行われているということ。そこだけを取り出せばめちゃめちゃ右傾化した展覧会として見ることもできると思う。極めつけは、展覧会の最後に設えてある「100 Japanese Contemporary Artists」というオンライン番組。これはコレクティブとして参加している宇川直宏(DOMMUNE)によるシリーズだ。100名の日本(人)の現代芸術家。たくさんのモニターが横一列に並び、そこに映っているのは、主に日本人の男性芸術家、男性批評家、男性学芸員たち。もちろん女性も、少しだけ、いる。例えばそれは「突然、目の前がひらけて」のアーティストたち(ここでも彼女たちの女性性に頼りすぎではないか)。さらにそこには100名の日本(人)の現代芸術家として在日コリアンのアーティストもいる(鄭梨愛さんと李晶玉さんはその扱いをどう思っていたのだろうか)。日本(人)の現代芸術家という枠組みのなかに、何のエクスキューズもなく在日コリアンのアーティストを混ぜ込むという無神経さ★2。ちょっとどうかしてない? ひどすぎない? マジョリティによるマイノリティの収奪。ポスト・コロニアルとかなかったことになっているのかな。家父長的で、権威的な、ナショナリズムとしての、日本の、美術展の完成形。気持ち悪い……。それが正直な印象だった。

 あ、ごめんなさい、椹木さん、悪気はありません。むしろ完璧な展覧会です。

 

 日本の前衛美術を、美術史として積み上げられていかない「悪い場所」と名づけ、自然災害がくり返される「この国」を特殊な場所として同定すること。離散と集合をくり返すバブルと瓦礫のなかから、日本固有の特別なアートが生まれてくる。このロジックは日本特殊論へと一直線に繋がっている。「平成美術」がナショナリズムを称揚することに無自覚になるのも必然なんだと思う。

 

 さて、検査を受ける日にもどろう。

 ハワイ最後の日々は休日にし、マウイ島やハワイ島に行った。溶岩の上を歩いたり、朝の海岸をぶらぶらしたり、山をドライブしたり。そして日本に帰る。まだこのときは、検査のあとにブラジルに行く予定だった。サンパウロにはブラジル日系移民資料館がある。そこを訪ねたかったのだ。

 

 正月明けの病院でカテーテルによる検査を受けた。右腕への部分麻酔だから医者や看護師たちがわちゃわちゃしているのが見える。思ったよりも太い管だ。薬剤が流れるたびに頭が痛いし熱い。どのくらい時間がたっただろうか。いつの間にか検査は終わり、止血。大仰だった。ボール状のもので血管が圧迫され、腕を動かさないように器具で固定された。終わった。まあ、まだ検査だけど、呆気ないものだ。そのまま一泊し、翌々日にもう一度大学病院に行く。脳の血流状態を調べるSPECT検査のためだ。人工的に脱水状態を作り、そのときにどの程度左脳右脳の血流量が変わるのかを調べた。

 検査の結果、手術をしたほうがいいと言われた。特に脳の血流量に差があるため、脳梗塞になる可能性があるということだった。ちなみにどうして右脳の血管が詰まっていても大丈夫だったかというと、さまざまな場所からの小さな血管のコレクティブがなんとか協働して、右脳全体に血液を送っているということがわかった。

 手術をしたほうがいいのはそうだろう。でもぼくと妻がもっとも知りたかったのは手術を受ける場合のリスクである。万が一、手術が失敗したとすればどうなるのだろう。誰しも心配になると思う。

 医師は静かに、半身不随になる、その可能性もある、と言う。ただし可能性はほぼほぼない、とすぐに付け加えたけれども。

 半身不随かあ。それはきついよなあ。撮影とかもうできないかもしれないかあ。

 

 そしてぼくは妻と話し合い手術を受けることにする。

 手術日は2019年4月1日。手術を終えたとき、新しい元号が発表されている。ぼくの身体はそのときどうなっているだろう。

(さらにつづく)

 

★1 2020年、美術批評家の黒瀬陽平を含むカオス*ラウンジがハラスメントで告発され、2021年現在、係争中である。これが原因でカオス*ラウンジが参加コレクティブから資料展示というかたちに変わったのは想像できる。しかしその情報を知らない観客には、「平成美術」展でのカオス*ラウンジの展示空間は奇妙なものに見えただろう。なぜなら資料として展示されていたのは「カオス*ラウンジ宣言2010」というステートメントだけ。そこに掲示されているキャプションにはどうしてこのような扱いになったのかの説明はない。むしろステートメントだけを発表したコンセプチュアルなグループと思われてしまう。ハンドアウトは「組織内のトラブル」が理由で展示が困難になったと書かれていたけど、会場のキャプションとは違って、ハンドアウトは必ずしも展示を見たひと全員が手に取るわけではない。それに「組織内のトラブル」と書くことは問題を矮小化しているように思えた。この問題がアートの労働環境にとっての深刻な事態だとすれば、展示をするにせよ、取りやめるにせよ、あるいは資料展示というかたちにするにしても、何らかの態度表明は必要だったと思う。もちろん、美術館としても、批評家、企画者としても、あるいは他の参加アーティストたちにしても、明確な意志を示すべきだったんじゃないかな。だってハラスメントだよ。擁護するにしてもロジックが必要だと思う。お茶を濁している場合ではないよ。なんだか手術の話のはずがいびつな回になっちゃったよ。
★2 「Japanese Contemporary Artists」という英語表記では「日本人の」という意味だけではなく、「日本(という地域)の」、というニュアンスが含まれるときもあるようだ(英語ネイティブ的にはそうみたい)。つまり日本という地域に住むすべてのアーティストが含まれる、と考えることもできる。というか「日本人」というときの境界線をどこに引くのかって、このなかなかセンシティブな問題、意識しているのかな。そもそもいまどき国民国家でアートをくくること自体が反動的な気も、あ、でもこれこそがまさに「平成」の感覚なのか……。

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1975年生まれ。アーティスト。主に参加した展覧会にあいちトリエンナーレ(2019)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2017)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2017)など。2015年にドイツ銀行によるアーティスト・オブ・ザ・イヤー、2013年に参加したヴェネチア・ビエンナーレでは日本館が特別表彰を受ける。主な著作、作品集に『Vulnerable Histories (An Archive)』(JRP | Ringier、2018年)、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)など。 写真=題府基之

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