愛について──符合の現代文化論(9)「キャラクター化の暴力」の時代(2)|さやわか

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初出:2021年6月25日刊行『ゲンロンβ62』
 宮台真司は『制服少女たちの選択』で、80年代以降の人々が記号的に物事を扱うような行動を際限なく繰り返したことで、人々がそれぞれ個立したコミュニティに属する「島宇宙化」が進んだと指摘した。宮台はそこで、各コミュニティ同士は没交渉になり、社会全体にわたるコミュニケーション回路は切断されていくと予測している。

 しかし本田由紀が指摘したように、それぞれのコミュニティは、実際には必ずしも閉鎖的なものにならなかった。たしかに島宇宙化と呼べる状態は生まれたが、コミュニティの構成員同士は仲間内で結束を高めつつ、他のコミュニティとは互いに対立を深めて誹謗し合うことが増えたのだ。つまり個々のコミュニティは閉鎖するどころか、むしろネガティブな交流を活発化させている。

 このような状況が生まれた背景に、ネット社会の進展があることは想像するに難くない。特にゼロ年代前半から、ネット掲示板、ブログ、SNSなどソーシャルメディアの一般化が始まると、各コミュニティの構成員たちには、自分たち以外にどのようなコミュニティが存在し、彼らとどのように考え方や生活様式が異なるのかが、よりはっきりと可視化されるようになった。

 アメリカの法学者キャス・サンスティーンは、ソーシャルメディアが各ユーザーの嗜好に合わせて表示する情報をコントロールしており、またユーザー側も自らの好ましい情報を選別しながら(オンデマンドで)使う仕組みになっていると指摘する。ユーザーが自分にとって好ましい情報だけを見聞きする閉ざされた環境を築くと、やがて同じ考えを持つ者同士だけがネット上で交流し、影響を与え合うようになる。彼はそれを「インフォメーションコクーン」(情報繭)や「エコーチェンバー」(反響室)などの語で説明し問題視する。


 ここでの問題は、成員がほとんど内輪で言葉を交わし、話を聞くような多様な言語共同体の構築から生じる。その結果、共同体同士の相互理解がかなり難しくなる可能性がある。社会が断片化すると、多様な集団が分極化しやすくなり、過激思想を生み、憎悪や暴力さえ生むことがある。★1


 上記の引用にある「憎悪や暴力」の向かう先とは、むろんコミュニティの外部にいる者たちだ。酒井順子『負け犬の遠吠え』が女性たちにとってオタクは恋愛対象にならないと断じたのも、それに憤った本田透が、女性は「恋愛資本主義」に洗脳されているとミソジニーを露わにしたのも、ソーシャルメディアによって「女性」と「オタク」が互いの存在を認知し、しかし相互理解には至らず、相手を一面的な理解による「キャラクター化の暴力」で貶めた例だと言える。

 



 かつてインターネットは、多様な人々が一堂に会し、人種や性別、職業や階級で区別されることなく、平等に意見を交わせるテクノロジーとして期待されていた。その期待とはまさに記号と意味を一対一の符合から解放すること、すなわち人々の言説を現実社会のしがらみから逃れさせることへの期待であった。しかしソーシャルメディアの台頭以降、人々は他のコミュニティへの敵愾心をむき出しにするようになった。インターネットのシステムが、かえって人々を「キャラクター化の暴力」へと向かわせ、コミュニティ同士を分断させる結果となったのだ。

 筆者の問題意識はここにある。なぜ人々はソーシャルメディア上で、所属するコミュニティ外部の者に対して「キャラクター化の暴力」を行使するのか。インターネットがかつて望まれていたような、記号と意味の強い結びつきを解除し、人々を自由にする技術として再発見することはできないだろうか。これについて考えるために、まずは伊藤昌亮の著書『フラッシュモブズ』(NTT出版、2011年)の記述をもとに、インターネットカルチャーにおける人々の行動様式から考えてみよう。

『フラッシュモブズ』の中では、2002年にネット掲示板「2ちゃんねる」のユーザー数百名が実施した「湘南ゴミ拾いオフ」や、その翌年以降恒例となった「24時間マラソン監視オフ」を取り上げられている。

 簡単に言うとこれらの「オフ会」は、一方的な「感動」を押しつけるフジテレビ「27時間テレビ」や日本テレビ「24時間テレビ」の偽善や欺瞞を暴くという主旨で、2ちゃんねるユーザーたちが番組の中継現場を集団で訪れるものだ。伊藤はそこに込められたマスメディア批判の姿勢に注目することで、従来的な市民運動との接点と差異を見出そうとする。

 そこで伊藤が参照するのは、まずイタリアの社会学者アルベルト・メルッチであり、つぎに日本の社会学者、北田暁大だ。

 メルッチは主著『現在に生きる遊牧民ノマド──新しい公共空間の創出に向けて』(岩波書店、1997年)の中で、今日の社会的紛争は情報化社会への進行により、物質資源の奪い合いだけでなく情報資源をめぐるものへ変化していると指摘している。

 伊藤はメルッチの議論を「シンボリックな挑戦」「メッセージとしての運動」「意味のネットワーク」という三つのキーワードで整理する。ここでは詳述は避けるが、以下ごく簡単に触れておこう。
 まず「シンボリックな挑戦」とは現代の社会運動の具体的な手法を示す言葉だ。すなわちそれは、既存の社会システムが強制しようとする記号と意味の符合から逃れ、これを転覆させ、新たな意味創出の機会を求めることである。伊藤の記述によれば「人間生活のあらゆる局面を暗黙のうちにコントロールしているシステムの支配的コードに挑戦し、それを転覆・打倒する」ということになる★2

 次に「メッセージとしての運動」とは、現代の社会運動の無目的性について語った言葉だ。つまり現代の社会運動は運動それ自体が目的化しており、運動そのものを顕在化させることが社会へのメッセージとして機能する。伊藤はこれについて「いいかえれば運動に参加するという行為そのものの中に新たな経験の可能性を見出すことによって、システムのコントロールの外側にオルタナティブな文化コードが存在しうることを社会全体に向けて発信しようとする」と述べている★3

 続いて「意味のネットワーク」とは、現代の社会運動がどう実践されるかを説明するものだ。すなわち「シンボリックな挑戦」を行うコミュニティの構成員たちは日常生活の中に溶け込み、分散しながら、絶えず記号と意味の符合を検証し、その結びつきを攪乱しようとする。伊藤はこれについて「そこではシステムの支配的コードに絶えず疑問が投げかけられ、それが組み替えられたり置き換えられたりしながらオルタナティブな文化コードの原型が生成され、精錬される。いわば意味の実験工場におけるそうした不断の活動を通じて蓄積される抵抗へのポテンシャルが折に触れて動員され」るとしている★4

 伊藤は以上のような整理をもとに、前述の「24時間マラソン監視オフ」について解説する。「24時間マラソンを監視しよう」という2ちゃんねるユーザーの姿勢は、マスメディアから一方的に押しつけられる情報を自ら検証しようとする「シンボリックな挑戦」だと言える。またそれが真正面からの反マスメディア活動ではなく、あくまで「オフ会に参加する」形で実施されることは「メッセージとしての運動」としての側面を成立させているとも言える。さらに、コミュニティ構成員はマラソンの監視そのもの以上に「意味のネットワーク」たる2ちゃんねる掲示板での対話を活発に行ってもいる。

 



 さらに伊藤は、北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』(NHKブックス、2005年)を参照し、これらの「オフ会」は2ちゃんねるユーザーのシニカルな心性を背景としているがゆえに、メルッチの言う「新しい社会運動」を超越しうるもの、すなわち「新しい新しい社会運動」になると議論を展開する。

 伊藤が言うのは、いわゆる「大規模オフ」や「フラッシュモブ」はマスメディア批判など政治的主張が念頭に置かれることがあるものの、基本的にはあらゆるものを「ネタ」として面白がってしまおうとする心性に基づいており、つまり政治性が本質的ではない点に新しさがあるということだ。

 たとえば前述の「湘南ゴミ拾いオフ」は、フジテレビがことさらに韓国へ注目させようとしているという、「偏向報道」への批判意識が発端にあった。伊藤はこれに注目しつつも、最終的に「オフ会」参加者たちの対抗意識はマスメディアへ向かい、活動の中で外国人に対する敵意はいつのまにか忘れ去られ、打ち捨てられてしまうのだとしている。

 であるとすれば「反社会運動」的な行動原理における敵手として定義されている外国人の存在は、そもそもそこでは必ずしも本質的・本来的なものではないのではなかろうか。それはむしろオフの実際の実行に先立つ潜在性の局面、すなわち2ちゃんねる掲示板における不断のメッセージのやりとりの中で「煽り」と「叩き」の都合のよい相手としてでっちあげられ、誹謗中傷の手っ取り早い標的としてひねり出されただけの存在であるのではなかろうか。

 いいかえればそこで直接の攻撃対象とされるそうした存在、すなわち韓国人をはじめとする外国人も実のところ2ちゃんねらーにとって必ずしも真の敵ではない。真の敵はむしろ、固有の共同体としての自分たちの外部に存在する社会システム全体、自分たちを取り巻き、そこから自分たちを排除・排斥しようとしていると漠然と感じ取られる社会そのものであろう。★5


 伊藤が参照した『嗤う日本の「ナショナリズム」』は、「ロマン的対象は、一見個々の行為者に行為の理由を与えているようにみえるが、じつは、『私の行為が他者によって接続されてほしい』という実存的な欲求によって事後的に仮構された『理由の備給点』にすぎないのである」と指摘する★6。つまり2ちゃんねるユーザーのいわゆる「ネトウヨ」的なナショナリズムも、根底では承認欲求と自己実現を求めるがゆえのものだというわけだ。伊藤の「湘南ゴミ拾いオフ」についての記述は、この北田の議論を踏まえたものになっている。

 だが、ここに批判の余地がある。まず単純なこととして、上に引用した伊藤の記述は、真の敵は社会システム全体なのだから、外国人に対する差別的な言動は看過していいのだというように読める。

 連載の前回で述べたように、女性は「恋愛資本主義」に洗脳されているのだとした本田や「クリスマス・ファシズム」を批判した堀井憲一郎の論調も、雑誌やテレビドラマが人々を恋愛に向かわせようとコントロールしているという、まさしくマスメディア批判に基づいていた。その意味では彼らにとっても、真の敵は「社会システム全体、自分たちを取り巻き、そこから自分たちを排除・排斥しようとしていると漠然と感じ取られる社会そのもの」だったのかもしれない。

 しかし、彼らはその過程においてミソジニーを露わにしている。特にネットジャーゴンと他者への嘲笑に満ちた本田の記述は、北田と伊藤が解説した2ちゃんねるユーザーらしさを前面に出しながら、酒井の『負け犬の遠吠え』をはじめとした女性たちを面白おかしくこき下ろしている。

 本田にとって酒井は「誹謗中傷の手っ取り早い標的としてひねり出されただけの存在」なのかもしれない。けれども、それは、子供たちが誰をいじめの対象とするかに理由がなく、ただ面白がっているだけだというのと大差ない。そしてもちろん、理由がなかろうと、面白がっているだけだろうと、そのはけ口にされた者は傷つくのだ。

 あるいは、自分たちのやっていることは「ネタ」であり、承認欲求を背景とした「メッセージとしての運動」、運動へ参加すること自体を目的化したものだから、主張内容は本気ではない、と言うのかもしれない。しかし彼らが主張の内容をいつのまにか忘れ、打ち捨てるのだとしても、言われたほうが同じように忘れてくれるはずはないだろう。
 改めて上に挙げた伊藤の記述を読んでみよう。ここでは、言説の主体である「2ちゃんねらー」のことだけが意識されており、それを言われる側への視線はきれいに抜け落ちている。この他者への無神経さこそが、所属するコミュニティ外部の者への「キャラクター化の暴力」を生む。

 たとえば前回から述べているように、本田に対して酒井に非がないわけではない。彼女もまた、本田らオタクに対して配慮に欠ける発言をしたことは事実だった。しかしだからといって、彼女に悪意があったわけでもないだろう。『負け犬の遠吠え』という本の主旨からしても、彼女もまた「シンボリックな挑戦」を、つまり記号と意味の分かちがたい符合を絶ち、従来的な社会のくびきから逃れようとして、件の発言を行ったはずだ。しかしそれもまた他者への無神経さを伴うものであり、「キャラクター化の暴力」を生んだということになる。

 要するに彼らはいずれもサンスティーンの述べるように「成員がほとんど内輪で言葉を交わし、話を聞くような」コミュニケーションを、ただコミュニティの内部に対してのみ投げかけているつもりだった。それがコミュニティの外部に対しては無神経に、暴力性や過激思想をあけすけに発露する結果になっているのだ。

 



 サンスティーンが危惧するのはそのことだけではない。彼はソーシャルメディア上で自分と似通った意見の人とばかり交流することが、情報汚染の蔓延につながっていくと指摘している。コミュニティ内の思想が先鋭化するとともに、コミュニティ内で大勢を占める意見であるならば真偽を問わず信じられるようになるプロセスを指して、サンスティーンは「サイバーカスケード」と呼んでいる。

 なぜ情報の真偽が問われなくなるのか。ひとつには、島宇宙的なコミュニティの構成員にとっては、事実関係の正しさよりもコミュニティへの所属と、外部への敵愾心が優先されるようになるからだ。サンスティーンは次のように記している。


重要な問題にかんして共和党議員が私に言ったことがある。「もちろん、この問題では民主党の案に賛成票を投じたいのだが、そんなことをしたら自分の仕事を失うことになる」。閉じたドアの向こうで、民主党議員も、共和党と連携することについて時には同じことを口にするだろうことに疑問の余地はない。どちらもエコーチェンバー現象──成員の一部から声高な反対の声が一斉に上がり、選挙で手痛いしっぺ返しを受けるかもしれないこと──を心配しているのだ。ソーシャルメディアはこの騒音の音量を上げて、分極化を助長する。★7


 これは実は、2ちゃんねるのユーザーたちがすべては「ネタ」であると言い募り、活動に参加すること自体を目的化しながら、主張内容を度外視する態度に似ている。すなわち、その内容が事実かどうか、正当であるかどうかはどうでもよく、ただ党派性のためだけにコミュニティの構成員たちは行動するようになるのだ。

 また、ソーシャルメディアが大きな力を持つ時代には、自分と関係のない第三者の意見よりも、近しい人間の言っていることが信じられるようになる。具体例としては、近年のマスメディアの信頼性が低下し、それに反比例するようにソーシャルメディアで接している人物の発言が信頼されるようになったことが挙げられる。

 自分と親しい人間の意見を安易に信じてしまうことは、現実世界でもありえる話ではある。しかしソーシャルメディア上で親しくしているのは、現実世界と違って情報コントロールの末に選ばれた相手であり、最初から自分と似た意見を持っている可能性が高い。他人の意見に耳を傾けているつもりでも、エコーチェンバー現象によって自分の意見を強化しているだけになる危険性がある。

 これについて、アメリカの作家でネット活動家のイーライ・パリサーは次のように書いている。


フィルタリングが行きすぎて狭い世界になるという考え方に対する反論として、パーソナライゼーションを推進する人は、フェイスブックなどのソーシャルメディアを取りあげることが多い。ソフトボールの仲間とフェイスブックで友達になれば、政治に対するその友達の文句も聞かざるをえなくなるというのだ。

[中略]しかし、アマチュアキュレーターのネットワークに頼ることにはふたつの問題がある。まずひとつは、普通、フェイスブックの友達は一般的なニュースソースよりも自分と似たものになってしまうこと──いわゆる類友だ。★8
 常識的に考えれば、一般的なニュースソースと「類友」の信頼性が比較されて、後者を重んじるのは愚かなことだ。にもかかわらず、なぜ人はそうしてしまうのか。実はこれには前述の、かつてインターネットの長所とされた点、すなわち、誰もが平等に意見を述べられることが関係している。

 つまり、こういうことである。すべての意見が平等であるならば、クオリティペーパーのウェブサイトに掲載された記事も、Twitterのフォロワーがつぶやいている投稿も、同等に価値を判断できてしまう。むしろサイバーカスケードに影響されて、所属コミュニティの意見のほうが確からしく感じられてもおかしくはないだろう。

 パリサーは、「類友」の記事を積極的に読めば読むほど、ネットアーキテクチャによる最適化が行われ、一般的なニュースや専門家の意見よりも「類友」の発言が優先して表示されるようになるだろうとも指摘している。彼の意見に付け加えるならば、メルッチを援用した伊藤の議論で既に見たように、ソーシャルメディアで築いたコミュニティは既存の社会システムが強制する記号と意味の符合から逃れる「シンボリックな挑戦」へ向かう。だとすれば、必然的にその論調はマスメディア批判的なものに行き着く。その代替として、人々はコミュニティ構成員の意見こそを重視するようになっていくのである。「シンボリックな挑戦」は社会システム全体が押しつけてくる記号と意味の強固な符合を解除するはずのものだったが、最終的には、それが身近なコミュニティの強制する符合に置き換えられるだけになってしまうのだ。

 北田や伊藤がゼロ年代の2ちゃんねるに対して試みた分析は、そのコミュニティの構成員たちの心性を鋭く抉り出すものではあったが、コミュニティ同士の対立や「キャラクター化の暴力」を視野に入れないものだった。2010年代を経て、差別的な発言やフェイクニュースの絶えない今日のソーシャルメディアを見るに、彼らの考えは楽観的にすぎたと言うべきだろう。

 そもそも私たちが肯定的に捉えるべきだったのは、ゼロ年代以降の2ちゃんねるの罵詈雑言などではなく、90年代以前に抱かれた、インターネットそのものへの期待ではなかったか。つまり、インターネットが記号と意味の結びつきを易々と解除でき、人々に自由な交流をもたらす可能性をこそ再検討すべきだったはずだ。

 近年のインターネットに、そのようなポジティブな可能性がほとんど感じられないのもたしかだ。しかしソーシャルメディアが人々を分断と「キャラクター化の暴力」にかき立てる今日においてなお、記号と意味の符合性を攪乱し、今日の人々が理想にすべき自由へ向かっているサブカルチャーは存在する。次回は昨今のセクシャルアイデンティティをめぐる問題について触れながら、それについて考えたい。

次回は2021年8月配信の『ゲンロンβ64』に掲載予定です。



 


★1 キャス・サンスティーン『#リパブリック――インターネットは民主主義になにをもたらすのか』、伊達尚美訳、勁草書房、2018年。電子版より引用。
★2 伊藤昌亮『フラッシュモブズ 儀礼と運動の交わるところ』、NTT出版、2011年、323頁。
★3 同書、326頁。
★4 同書、329頁。
★5 同書、383頁。
★6 北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』、NHKブックス、2005年、329頁。
★7 キャス・サンスティーン、前掲書。
★8 イーライ・パリサー『閉じこもるインターネット――グーグル・パーソナライズ・民主主義』、井口耕二訳、早川書房、2012年。
 

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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