【『ゲンロン13』関連記事】悪と公共性をアジアから考える(1)|梶谷懐+東浩紀

シェア
webゲンロン 2022年10月6日配信
 2021年11月16日、『ゲンロン12』刊行記念イベントのひとつとして経済学者・梶谷懐さんと東浩紀による対談イベントが行われました。『幸福な監視国家・中国』(共著、2019年)などの著作で知られる梶谷さんが、東の論文への応答記事をご自身のブログで書かれたことをきっかけに実現したこの対談。昨年「ゲンロン友の会」にも入会してくださったという梶谷さんのご経歴から、戦争責任の問題や村上春樹らの文学作品、さらには中国の政治風土や公共性まで、「アジア」という視点からさまざまな普遍的な問題について深い議論が交わされました。(編集部)
第1回
東浩紀 本日は経済学者の梶谷懐さんをお招きしました。梶谷さんは先日(2021年7月から10月)、ゲンロンカフェでの中島隆博さんとのイベントや『ゲンロン10』に書いたぼくの論文に関して、ブログで感想を書いてくださっています。後者ではぼくが関心を持っている「悪の愚かさ」の問題に対して「アジア」という視点を交えた応答がなされていて、胸を衝かれる思いがしました。

 また、梶谷さんはジャーナリストの高口康太さんと『幸福な監視国家・中国』(2019年)という共著も書かれていて、こちらもたいへんおもしろく読みました。梶谷さんは、中国における公共性の伝統は西洋とは異なるもので、それがある種の監視社会を求めているのではないかと問題提起されています。

 そこで、今回はこの「悪」と「公共性」というふたつをテーマに議論していければと思います。よろしくお願いいたします。

イベント当日の様子。左から梶谷懐、東浩紀

関西の左翼から中国の経済へ


 まずは梶谷さんのバックグラウンドについてお聞きします。梶谷さんは2015年に出された『日本と中国、「脱近代」の誘惑』で、ぼくの『一般意志2.0』(2011年)について応答されています。

梶谷懐 もともと東さんの書かれたものには目を通して刺激を受けていました。ただ、映像はほとんど見ていなかったのですが、今年(2021年)にトークのお話があってからはシラスの番組なども見るようになり、話し手としての東さんのことも認識するようになりました。それらの映像を見てみると、あまりに饒舌な方なのでびっくりしました(笑)。最近、ゲンロン友の会にも入会したところです。

 ありがとうございます(笑)。

梶谷 その流れで2018年の中島隆博さんとの対談を拝見し、まずはその感想をブログに書きました[★1]。その記事に東さんからTwitterで反応をいただき、それをきっかけにこんどは『ゲンロン10』と『11』に連続して掲載された「悪の愚かさについて」を読んで感銘を受け、そちらの感想もブログに書きました[★2]。むしろいままでなぜこれを読まなかったのだろう、というのが正直な感想です。日本の戦争責任について論じているひとたちも、もっと東さんの議論に反応すべきだったと思います。

 嬉しいお言葉です。ブログや本を読むと、ぼくに限らず文学や思想に深い関心がおありなことがわかります。しかし、それがご専門ではないですよね。

梶谷 わたしは中国経済が専門で、ふだんは日経新聞や経済誌に寄稿するなど、今回のようなテーマとはいっけん結びつかない仕事をしています。それがなぜ東さんの本をはじめ哲学や思想に関心を持っているのかというと、出自が関係しています。わたしは東さんとほぼ同世代で、70年に大阪に生まれたのですが、家庭や教育環境がとても特殊でした。父は詩人で、母はフランス文学専攻の大学教員でデリダの翻訳にも関わっていました。つまりは典型的な人文系インテリの家庭で、家に本がたくさんあるという点ではとても恵まれていた。ただ、その分「どうやってお金を稼ぐか」という経済への関心はとても希薄な家庭だったんですね。それを見て育ったので、「もっと地に足のついたことも考えないとだめだよな」ということを考えるようになり、いまのような専門にたどり着いたのだと思います。

 お母様がデリダの翻訳をされていたとは驚きです。 

梶谷 学校教育も偏っていました。ずっと大阪の高槻で育ったのですが、当時は端的にいうと左翼的で、学生運動あがりの先生が多かった。小学校では道徳の授業がなくて、その代わりに同和問題や障がい者問題、戦争体験といった社会問題について学ぶ時間にあてられていました。歴史の時間では天皇や為政者についてよりも百姓一揆のことばかり教えてもらったという印象があります。また、高校に進学するときは、成績がよくても進学校ではなく地元の高校に行くよう勧められました。受験競争を批判している先生が多く、わたしのような「意識の高い生徒」こそ、地元の、偏差値のあまり高くない学校に行って周りに良い影響を与えてほしい、というわけです。当時はいわゆる「いい子」だったので、実際にそうしたのですが、周囲から浮いてしまい、次第に引きこもり気味になっていきました。

 ぼくは東京で進学校に通っていました。同世代なのに別世界の話のようです。高校の頃はどのようなものを読まれていたのですか。

梶谷 高1くらいのときに吉本隆明の『「反核」異論』(1982年)を読んで衝撃を受けました。81年の「文学者の反核声明」に対する反論として書かれた本ですが、「反核」「反戦」という正義を絶対視する人々、欺瞞を力強く批判していて、小中学校の教育で受けた価値観がひっくり返りました。そもそも家には吉本の本がけっこうあり、『試行』も購読していたくらいでした。

 それはたしかに特殊な環境ですね。大学は神戸大学で、院生時代に阪神大震災を経験されたとのことですが。

梶谷 大学時代はずっと演劇をやっていました。東京パラリンピック開会式の演出をやっていたウォーリー木下さんが演劇部の同期です。家も近所で、阪神大震災のとき心配して見に行ったら、彼が当時住んでいた木造アパートの一階が全部潰れており、彼も危うく死ぬところだった。わたし自身はそれほど被害を受けていませんが、なにかしないといけないような気になり、院生時代は震災ボランティアにも参加しました。当時はボランティア元年とも呼ばれましたが、最近だと安保法制に反対した SEALDs に参加していそうな、リベラル・左翼寄りの若者が集まっていたような印象があります。

 
 

 
 中国に留学されたのはいつ頃ですか。

梶谷 震災の1年後、1996年です。いまから思えば、ちょうど中国で愛国主義教育が始まった時期にあたります。それまで日中友好を保つために抑えられてきた過去の被害の記憶が、記念館の建設や教育の変更のかたちで公的に現れてきた時期だったと思います。

 梶谷さんが『日本と中国経済』(2016年)で指摘されているとおり、かつては日本と中国は仲がよかった。1972年の日中国交回復からしばらくは蜜月時代が続き、80年代に入っても、中曽根総理の靖国神社参拝などはありつつも仲よくやってきた。しかし、90年代には中国で愛国主義教育が始まったこともあり日中関係は徐々に変質していき、2000年代に入ると激しい反日デモも起きるようになる。

梶谷 留学中に中国各地を旅行していると、ことあるごとに「南京大虐殺についてどう思うんだ」といったことを聞かれました。あまりにたびたび聞かれるのでうんざりしていたときに、北京の大学図書館で当時雑誌に発表されたばかりの加藤典洋さんの「語り口の問題」(1997年、同年に『敗戦後論』に収録)を読み、感銘を受けたことをよく覚えています。

 中国で歴史認識の問題が浮上していたときに、まさに日本側で同じ問題を取り上げていた加藤典洋を読んでいた。それは意義深いですね。

 じつはぼくは当時は、加藤さんの論敵だった高橋哲哉さんが大学院の指導教官だったこともあって、彼の問題提起がよく理解できなかったんです。加藤さんは「自国の死者をまず追悼しないと外交も解決できない」とおっしゃっていて、ポストモダニストのあいだでは旧態依然としたナショナリストという評価が強かった。そんな周囲の理解にぼくも流されていた。けれどもいまでは重要性がよくわかる。歴史認識については、議論がカール・シュミットの言う「友」と「敵」の構造になって解決がつかなくなりがちです。加藤さんが「語り口」に注目したのは、両陣営がそんな友敵構造に囚われ動けなくなったときに、突破口となる説得の方法を探すためだったのだと思います。いうなれば、加藤さんは友と敵の膠着状態を脱構築しようとしていた。そんな認識があまり広がらないまま論争が終わってしまったことは、いま思えば大きな損失でした。

梶谷 東さんは加藤さんの『戦後的思考』の文庫版(2016年)の解説で、彼の文章は人生経験がないとわからないかもしれない、と書かれています。けれども、わたしは大学に入学する前後くらいから加藤さんの本を愛読していました。ご自身でも書かれていますが、加藤さんの思想の背景には学生運動の挫折体験がある[★3]。急進的な運動を続けても出口はないが、かといって転向もしたくない。理念を捨てずにいかに急進的な運動から軟着陸するかというテーマが底層にある。わたしにも、家庭環境や受けた教育のせいで頭でっかちになり、地元の高校で頑張ろうとして空回りした、というささやかな挫折体験があります。当時からそのことを意識していたわけではありませんが、だから加藤さんの書くものに共感したのだと思います。

 わかる気がします。ぼくが惹かれていた柄谷行人さんや浅田彰さんたち『批評空間』派はとくに加藤さんを厳しく批判していましたが、彼らの思想の特徴は、挫折がない、あったとしてもそれを見せないというところにある。ぼくを含め若いひとにはそれこそが魅力だったのだけれど、いまではそれこそ問題だったのだと自戒を込めて思います。

 いずれにせよ、加藤さんが全共闘的なものに挫折したように、梶谷さんもまた左翼的で人文的な理想に挫折し、そこから離脱するために経済学を学ばれたということですね。

梶谷 でも、いまこうして東さんと「悪と公共性」のような抽象的なテーマでお話しているのですから、結局は自分がもともといたところに戻っている気もします(笑)。東さんが「ゲンロンと祖父」(2018年)で書かれていたとおりですね[★4]

加害と被害の二項対立を超える


梶谷 わたしの経歴紹介はここまでにして、東さんの論文についてお話しましょう。『ゲンロン10』の第一論文[★5]では、人体実験で悪名高い旧日本陸軍731部隊が取り上げられています。部隊の研究所は中国黒竜江省のハルビン郊外の平房ピンファンというところにあったのですが、東さんは、その跡地にいまは団地が建てられ、生活感あふれる場所になっていることに着目されている。そこから戦争被害の記憶を語るオルタナティブな方法について考えられています。

 『ゲンロン10』の論文では、「名前」と「数」の対立について論じました。戦争や災害の記憶というのはいまでは大きな政治的イシューになっていますが、そこではたいていの場合、犠牲者をたんなる数として処理せず、一人ひとり名前として記憶することが「よいこと」だとされています。

 けれども、名前と数はそうかんたんに分けられるものなのか。たとえば記念碑には犠牲者の名前が刻まれることがあります。たしかに遺族にとっては癒しになると思います。しかし、名前がたくさん書かれているということは、もはやそれが「数」になっているということでもある。何百人、何千人という名前は現実には機械で刻印されているわけで、あえて皮肉めいた言い方をすれば、その背後にはエクセル化された名前のリストがあるわけです。ぼくは以前から災害や戦争の記憶に興味があり、プライベートな旅行でも記念碑を気をつけて訪れるようにしてきたのですが、あるときからそのことが気になり始めました。

 つまり、数と名前の対立には限界がある。『ゲンロン10』の論文では、その対立を超える方法を論じました。731部隊では、人体実験の対象者を「マルタ」(丸太)と呼び「1本2本」と数えていました。犠牲者から名前を奪い、まさに数に還元していたわけです。それに対して、いま中国は博物館(罪障陳列館)を建て、当時の資料を調査することで犠牲者の名前を回復しようとしています。しかし、これとは別の記憶の方法はないものだろうか。それがぼくの問題意識で、そこで跡地に団地が建設されているという「土地の記憶」に着目したわけです。虐殺という大量死が起こった土地に、それとは真逆の「大量生」の場である団地が出現した。その皮肉な歴史に、むしろ数と名前の対立を超える可能性があるのではないかと考えました。

梶谷 もちろん、彼らが何事もなく団地生活を謳歌しているからといって、加害側の日本人がそれを見て「なんだ、過去の戦争のことなんか忘れているじゃないか」と言うのは無神経すぎます。かといって、平房の罪障陳列館のような「過去を正しく再現する」展示が唯一の記憶の方法かというとそれもちがう、という問題提起ですね。

 そのとおりです。博物館を否定しているわけではない。けれども博物館的な記憶には限界がある。

 731部隊の中心的な事務棟は、戦後ある時期まで中学校の校舎として使われていました。平房の子どもたちは、まだ虐殺の記憶が生々しいなか、まさにその虐殺の指令が発せられていた建物で学んでいたことになります。これをどう理解するか。ぼくとしては、団地生活の謳歌は、むしろ「すこしまえにここで虐殺があった」という被害の記憶の生々しさと結びついていたのだと思うんです。けれども皮肉なことに、時間が経ち、被害の記憶が忘却されかけたときにこそ、むしろ博物館が整備されることになる。

 実際、中国に限らず、第二次大戦時の被害の記憶が政治的なイシューになっていくのはむしろ冷戦崩壊以降です。博物館や記念碑は記憶がなくなったからこそ現れる。この逆説に鈍感だと、博物館的な記憶そのものがある種の忘却のうえに成り立っているということを見逃してしまう。

 『ゲンロン10』の論文では、そこで忘却されているものは731部隊の「愚かさ」や「無意味さ」なのだと論じています。いま平房にある博物館の説明では、731部隊は天皇をトップとした指揮系統の一端に位置づけられていて、人体実験も日本軍の巨大な悪のひとつだという説明がなされている。けれども最近の日本側の研究書によれば、実際は731部隊の行動は不合理そのもので、計画性などろくになかったらしいのですね。むしろそちらのほうが問題なのだけど、博物館的な記憶ではその側面は消えてしまう。ひらたくいえば、加害側が過剰に巨大で偉大に見えてしまうということです。ほんとうは卑小さにこそ問題があるにもかかわらず、です。

 
 

 
梶谷 大きな物語に巻き込まれることは、歴史認識問題ではしばしば起こることです。被害経験の物語化が進むなかで、そこに疑問を差し挟むこと自体が正義に反するものになっていく。けれども、被害者側からの語りにはどうしても過剰な物語化がなされがちだし、そこに無理が生じる場合もある。加藤さんが「語り口」に注目したのも、被害者による物語化によって事態が白と黒に分かれてしまうことへの違和感があったからだと思います。でも実際は、戦争被害の当事者側も、その記憶が生々しかった頃には事態をそれほど単純化していなかったりする。

 東さんの問題提起は、そういった加害と被害がはっきり分かれない状況に注目するものでもありますね。

 おっしゃるとおりです。いまではむしろ、「被害と加害がはっきり分かれない状態について考えることなど、加害を相対化する二次加害である」と非難されかねません。ぼくの論文に反応が少ないのも、善と悪を分ける絶対的な正義がどこかにあるとみな思っているからなのかもしれません。

 収容所跡に団地が建ち人々が生活している状態というのは、ある意味で加害と被害が完全には分かれていない状態です。國分功一郎さんの言い方でいう「中動態」の状態とも言いかえられます。

梶谷 「中動態」の概念は第二論文[★6]で主題的に取り上げられていました。この論文で言われていたのは、「悪」あるいは加害の局面において、意志―行為―責任の連関が成立していないことのほうが多いのではないか、ということです。明確な意志を持って大量虐殺が行われたケースなど、じつはほとんどないのかもしれない。

 ぼくは論文では、中国で生体解剖を行い、のち告白して有名になる湯浅謙医師の証言を引用しました[★7]。彼の回顧録を読んで印象的だったのは、医師が日本に戻りかつての同僚と会ったときの話です。湯浅医師は戦後中国・撫順の戦犯管理所で再教育を受け、犯罪行為を反省して帰国しました。ところが日本にいた当時の同僚と会うと、彼らが生体解剖の経験をあまり気に止めず、あっさりと話すのでかえって驚くことになる。彼らは生体解剖について、喋ったらまずい行為だとすら考えていなかったわけです。ここにこそおそろしさがある。

梶谷 そのような加害性の無自覚は、現在の中国のエリートにも見られますね。『幸福な監視国家・中国』にも出てくる、AIを使った顔認識システムを作っている新興IT企業の若者に取材したとき、「新疆ウイグル自治区の監視システムはうちが開発したんだぜ」と自慢げに語られて、何とも言えない気持ちになったことがあります。

 人間はつねに加害者でありうる。その可能性を忘れるべきではない。これは過去の加害を免責しようという話ではありません。過去のひとは愚かだったと決めつけ、それによって思考停止するべきではないということです。過去のひとも過去のひとでいろいろ考えていた。けれども未来から見たら、どうしようもなく愚かで悪のように見える。その条件は現代のぼくたちも同じはずです。未来はつねに一方的に過去を裁くことのできる立場にある。だからぼくたちもまた未来から裁かれる運命にある。その条件のなかで悪に気づくとはどういうことなのかを考えねばならない。そうすると、単純に被害者の物語を絶対化すればよいという話にはならないんですよね。

他者としての歴史


梶谷 さきほども述べたとおり、中国で愛国教育とともに、第二次大戦の被害の物語化が始まったのは90年代です。それに対応して日本国内でも論争が起きます。(次回へ続く

 


★1 梶谷懐「中国思想における『絶対悪』と米中対立」、『梶ピエールのブログ』、2021年7月25日。URL=https://kaikaji.hatenablog.com/entry/2021/07/25/004015 同ブログ記事で触れられている対談は以下。中島隆博×東浩紀「カントと孟子が語り合う──『道徳を基礎づける』講談社学術文庫版刊行記念トークイベント」)。URL=https://genron-cafe.jp/event/20180118/
★2 梶谷懐「『悪の愚かさ』と『アジア』への向き合い方」、『梶ピエールのブログ』、2021年8月15日。URL=https://kaikaji.hatenablog.com/entry/2021/08/15/155059
★3 加藤典洋『オレの東大物語 1966-1972』、集英社、2020年。
★4 以下に所収。東浩紀『ゆるく考える』、河出文庫、2021年。
★5 東浩紀「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」、『ゲンロン10』、ゲンロン、2019年。
★6 東浩紀「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」、『ゲンロン11』、ゲンロン、2020年。
★7 吉開那津子『増補新版 消せない記憶──日本軍の生体解剖の記録』、日中出版、1996年。同書の内容については、東浩紀「悪の愚かさについて2」の★11(31頁)での記述も参照。

梶谷懐

1970年生まれ。2001年、神戸大学大学院経済学研究科より博士号取得。神戸学院大学経済学部講師、助教授、神戸大学大学院経済学研究科准教授などを経て、現在、神戸大学大学院経済学研究科教授。専門は現代中国の財政・金融。著書に『現代中国の財政金融システム』(名古屋大学出版会、2011年、大平正芳記念賞受賞)、『日本と中国、「脱近代」の誘惑:アジア的なものを再考する』(太田出版、2015年)、『日本と中国経済』(ちくま新書、2016年)、『中国経済講義』(中公新書、2018年)『幸福な監視国家・中国』(高口康太との共著、NHK出版新書、2019年)などがある。

東浩紀

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』、『訂正する力』など。
    コメントを残すにはログインしてください。