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【『ゲンロン13』関連記事】悪と公共性をアジアから考える(3)|梶谷懐+東浩紀

webゲンロン 2022年10月21日配信
 2021年11月16日、『ゲンロン12』刊行記念イベントのひとつとして経済学者・梶谷懐さんと東浩紀による対談イベントが行われました。『幸福な監視国家・中国』(共著、2019年)などの著作で知られる梶谷さんが、東の論文への応答記事をご自身のブログで書かれたことをきっかけに実現したこの対談。昨年「ゲンロン友の会」にも入会してくださったという梶谷さんのご経歴から、戦争責任の問題や村上春樹らの文学作品、さらには中国の政治風土や公共性まで、「アジア」という視点からさまざまな普遍的な問題について深い議論が交わされました。第1回第2回とあわせてお楽しみください。
 
 また現在予約受付中の『ゲンロン13』では、梶谷さんと東に、憲法学者の山本龍彦さん加えた鼎談「情報時代の民主主義と権威主義」を収録しています。ゲンロンショップでは、東浩紀のサイン入り『ゲンロン13』が手に入るキャンペーンも実施中です。この機会にぜひご検討ください。(編集部)
第3回

    

「人民の敵」を探しつづける中国

 ここまで悪やアジア性の問題について語ってきましたが、ここからはもうひとつのテーマである公共性について議論したいと思います。

梶谷 アジアにおける公共性ということでいえば、わたしはこのところ、東さんも論じられている西洋的な一般意志と中国の関係について考えています。ルソーの議論においては人民が主権者として定義されている。では中国はどうなのか。中国的な一般意志を考えるうえで重要なのはむしろ「人民の敵」という言葉です。中国共産党、あるいは毛沢東が人民とはこれこれこういう存在だ、という定義をやっているかというとそんなことはないわけです。その代わりに「人民の敵」については明確に定義し、名指しをしている。つまり、「人民の敵」ではない存在が人民だというわけです。

 ソ連でも革命後は「こいつは人民の敵だ」ということでどんどん粛清が起こりましたが、中国も同じなのですね。

梶谷 そうです。そして、毛沢東の「人民の敵」の定義は時代とともにどんどん変わっていきます。

 すこし詳しく紹介しますと、毛沢東が1940年代に「新民主主義」というスローガンを掲げていた時期には、人民の敵は「漢奸」(日本に味方をする中国人)や反革命分子を指していました。けれども、抗日戦争が終わり中華人民共和国ができた49年の「人民民主独裁を論ず」という論文では、人民の敵は国民党や国民党関係者に変わります[★1]。さらに、57年の「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」という論文では、国民党が大陸からいなくなり、国内に敵がいなくなった状況で書かれているので、社会主義革命に反抗し、社会主義建設を敵視し破壊する社会勢力と社会集団はすべて人民の敵だと名指されることになる[★2]。要は、「人民の敵」には客観的な基準はない、ということです。「お前は社会主義に反抗している」と共産党に名指しされたら、その時点で人民の敵になってしまう。

 常識で考えれば、伝統的なアジア的専制と近代的な人民主権は結びつきません。しかし革命後の中国においては、人民を「人民の敵でないもの」と定義することで、その内実を専制権力にしか決められないものに変えてしまった。つまり、近代化のなかで人民主権とアジア的専制が奇妙な合体をしたと言えるわけです。

 たいへんおもしろいですね。その「敵」の問題は、中国の伝統的な公共性の概念とどう結びつくのでしょう。梶谷さんは『日本と中国、「脱近代」の誘惑』で、溝口雄三氏の議論を援用しつつ日本と中国における「公」の概念を比較していますね[★3]。日本の「公」は「おおやけ=朝廷」に由来するある種の領域性を表す一方で、中国では「平分」と呼ばれる公平な配分を意味しているのだという。

梶谷懐『日本と中国、「脱近代」の誘惑』(太田出版)
 

梶谷 中国の庶民が持つ「公」の感覚においては、治世の公平さと生存可能性がもっとも重視されます。公平な治世が続くかぎり従うけれども、それが行われず生存が脅かされるようなことがあれば暴動も辞さない。そこでの「公」は西洋的な意味での公共性ではなく、たとえば市民が活発な言論活動によって異議申し立てをする環境、などといったものは含意しない。そのようなタイプの公共性は、敵を名指しする力が権力者だけに与えられる、専制政治と矛盾しないように思います。

 なるほど。ただ他方で梶谷さんは、中国的な「公」はルソーの一般意志と親和性があるとも指摘されています。ぼく自身も注目している点ですが、そもそもルソーの議論は独裁を肯定する部分がある。ルソーの『社会契約論』には、「立法者」という悪名高い概念があります。一般意志が実現されるためには、神の如き力を持った存在である「立法者」がいなければならないという議論です。素朴に読めば、これはヒトラーや毛沢東に一直線につながります。

梶谷 おっしゃるとおりです。中国的な「公」とルソーの議論にちがいを見出すとすれば、異議申し立てを「権利」として捉えるかどうかだと思います。中国の伝統では「天」のような超越的なものが想定され、その道理から外れた政権は民によって倒されると理解されている。それは西洋社会が個人の権利を前提としているのとはちがいます。

 それはむしろちがいではないかもしれません。ルソーの一般意志は、まさにいまおっしゃった「天」に近いとも解釈できるからです。ルソーは一般意志を「自然」に近いものとして考えています。一般意志はおのずからそこに存在するもので、人間はそれに従うしかありません。

 ちなみに、ルソーは「自然」という概念をかなり都合よく使っています。彼はあるところでは「人間は自然に生きていればわずらわしい文明をつくらずに済んだはずだ」と言いながら、別のところでは「人間を放置していたら自然に集まって社会をつくってしまうので良くない」とも言っている。つまり、あるときは自然に従うべきだと言いながら、別のときは従うべきではないと言っている。その融通無下のところも「天」に通じるかもしれない。

 いずれにせよ、中国では、いま人民が「人民の敵でないもの」というかたちで、いわば否定神学的に想像されているというのはとてもおもしろい話です。

梶谷 具体的には、人民の敵を名指しすることによって人民が定義される、ということは、人民が持ち上げられるときには、必ずそこに抑圧されるひとが存在する、ということです。

 幸いなことに、毛沢東が死んで改革開放路線の時代に入ると、人民という言葉が敵を名指す文脈ではあまり使われなくなりました。資本家ですら国を富ませるという意味では人民の仲間だ、ということになっていく。ところが習近平政権に入ると、再び「敵」の存在を想起させる「人民」という言葉が使われるようになりました。それを象徴するのがコロナ禍について中国政府が「これはコロナとの人民戦争だ」と述べた事例です。中国では50年代に日本住血吸虫症という伝染病が猛威をふるい、毛沢東がそれを撲滅する取り組みを「人民戦争」と呼んだことがありました。今回はそのときの記憶が呼び出され、習近平と毛沢東が重ね合わされるキャンペーンが行われたのです。

 それはまったく知りませんでした。偶然なのでしょうが、コロナ禍が「日本」と名のつく伝染病と重ね合わされたのも意味深い。

梶谷 ここで重要なのは、敵はウイルスなので、人民のなかには敵をつくっていないということです。しかし、現実にはその人民のなかにはコロナ禍下で儲けたIT企業の経営者もいれば、ギグワークでフードデリバリーをして凌いでいる貧困層も含まれる。その状況で「人民は一体となって敵と戦っている」とキャンペーンを張ることは、じつは矛盾であり欺瞞です。政権はその矛盾に気づいているので、ある時期からはIT企業を批判するようになり、貧困支援のために強制的に多額の「寄付」をさせたりしています。そこでは「政権の言うことを聞かないとお前を人民の敵にするぞ」というロジックが見え隠れしている。中国はいまだに「人民の敵」の論理から離れることができていないと思います。

 

梶谷懐

功利主義は批判可能か

梶谷 もうひとつ、中国の公共性を考えるうえで避けて通れないのは監視社会化の問題です。かつては、経済が発展すれば自然と民主化が進み、個人の権利の意識も高まるだろうという期待がありました。けれども実際は、経済が発展すればするほどビッグデータへの依存が高まり、市民はどんどん個人情報を吸い上げられて、「巨大IT企業とそのバックにいる政府」対「まったく力を持たない個人」の対峙が激しくなりつつある。

 これはまさに東さんの『一般意志2.0』とも関わる問題ですね。この本で東さんは、人々の無意識を可視化したビッグデータを新たな一般意志として尊重しつつ、それだけで物事を決めるのは危険なので、別のところで熟議や市民的公共性を残して一般意志を制約すべきだと議論している。実際、EUはGDPR(一般データ保護規則)などによって個人情報保護を厳しくし、巨大IT企業の力から市民的公共性を守ろうとしている。しかし中国では、そのような制約なしに、ビッグデータによってすべてをアルゴリズム的な合理性で決めてしまおうという方向になっています。もはやSF的な世界とさえ言える状況ですが、東さんはその状況をどう見ていますか。

 じつは『一般意志2.0』については、いまはちょっと批判的なんです。おっしゃるとおり、『一般意志2.0』はけっしてビッグデータ万歳の本ではありません。けれども結果的には、あの本はいまの中国に近い体制を提案してしまっている。あそこで「熟議とデータベースのバランス」という言葉で言われているのは、あえてわかりやすく言えば、「指導部が情報技術を使って絶えず人民の意志をチェックしながら、良きに計らう統治をするのがいいのだ」という主張だからです。これはもろにいまの中国共産党がやっていることのように見える。今後はこの弱点の修正が課題です。

梶谷 なるほど。まさにいまの中国共産党は人民を絶えずチェックし、彼らの声を聞いています。中国には言論の自由がなく、SNSも規制され政権批判も封殺されているといったイメージが強いと思いますが、じつは共産党はSNSの意見をかなり参考にしています。たとえばコロナ禍の始まりのときはSNSの微博ウェイボーで政府批判がかなり飛び交っていたのですが、ある時点まではほとんど削除されず、放置されていました。むしろその書き込みを見て、「この方針でいくと問題がありそうだ」「ここの役人は腐敗しているようだ」といった情報を集めていたのだと思います。けれども、いちど政府の方針が固まれば、そのあとは批判は一切許されなくなります。

 いちど方針が決まれば批判は許されない、というのはおもしろいですね。人民の意志がいちど確定してしまうと、そのあと異議の表明はすべて「敵」になってしまう。言いかえれば人民の意志は訂正が許されない。逆にぼくとしては、『ゲンロン12』にも記したように、公共性を「訂正可能性」の場として再定義したいと考えています。その点では中国共産党とちがう(笑)。

梶谷 西洋的な考えでは、まさに訂正可能性が重要になるのだと思います。けれども中国の市民はいまの統治のあり方をかなり受け入れています。理由の第一はいまの中国では功利主義がむき出しになっているからです。結果として感染者が減ったり、あるいは人々の収入が上がったり犯罪者が捕まったりするのであれば、監視社会でもいいではないかという発想ですね。最近、政治学者の宇野重規さんと対談させていただいたのですが、そのとき話題になったのは、コロナ禍のいまこそ功利主義批判が必要だということでした[★4]

 同意見です。まさにいま必要なのは功利主義批判です。21世紀に入ってこのかた、理念やイデオロギーなんて百害あって一利なしで、政治の場でもデータやエビデンスに基づくコスト感覚こそが重要なんだという考えが着実に影響力を増している。コロナ禍でもその流れはいちだんと強まった。

 けれども現実には功利主義は万能ではない。このコロナ禍で明らかになったのも、実際には、限られた情報のなかで功利主義的な判断を下すことの罠だと思います。コロナ対策の成否は本来、10年、20年後になってトータルで判断されるものでしょう。たとえば中国のゼロコロナは当初は経済を守ったと言われ、いまでもまだ一部では賞賛されている。けれどもどこまで続くか。欧米はたしかに感染者は多かったけれど、いずれ集団免疫を獲得して再びコロナまえに戻ります。するとこんどは中国が不利な立場になるはずです。短期的には勝利したように見えても、長期的には敗北するということもある。となるとどっちが功利主義的だったかはわからない。逆説的な言い方になりますが、功利主義を超えた自由や人権を大事にすることのほうにこそ、長期的には功利主義的なメリットがあるというケースもあるのではないか。

 

東浩紀
 

梶谷 よくわかります。ノーベル経済学賞をとったダグラス・ノースは、社会の制度は不確実性に対応することによって形づくられると議論しています。そして、その不確実性にはふたつの種類がある。ひとつは自然環境に由来するもので、もうひとつは人間社会の内部にあるものです。ノースによれば、前者に最適化したのがいわゆる権威主義体制をとる国ぐにであり、後者に対応したのが市民的公共性を重視する欧米型の民主主義国家です。その議論を踏まえれば、中国社会がコロナという自然由来な脅威を抑え込むことに成功したのはまったく不思議ではない。しかし、それだけでは社会内部のリスクには対応できません。

「公平な観察者」とランダムな親

 梶谷さんは、公共性はどのようなものであるべきだと考えていますか。

梶谷 アマルティア・センが『正義のアイデア』(2011年)でアダム・スミスの「公平な観察者」について論じていますが、それがヒントになると思います。この問題については、東さんの『ゲンロン12』論文に応答したブログ記事でも触れました[★5]

 センは、ジョン・ロールズの政治哲学を「先見的制度尊重主義」という言い方で批判しています。ロールズは公共性について考えるとき、正義のあるべきモデルを想定します。そのモデルからズレたものを正していけばよいという発想をとる。しかし、そのような発想で現実の問題が解決することはほとんどありません。それに対してセンは現実に存在する「明らかな不正」を取り除き、「より良い」状態を目指すことが正義なのだと言います。いわば正義の再定義です。そして、複数の現実から「より良い」状態を判断するのはだれなのかというとき、センが持ち出すのがスミス的な「公平な観察者」の概念なのです。センの考える「公平な観察者」は、絶対の正義を掲げる存在ではありません。そうではなく、自らの経験に基づいて「明らかな不正」を取り除くことに貢献する人々です。

 わたしはこの哲学を東さんの「訂正可能性」の議論と重ね合わせています。東さんは、中途半端なコミットメントを考えていく必要があると書かれていました。ひとはすべての問題に全面的にコミットすることはできない。ひとりの人間には能力的にも時間的にも必ず限界がある。そうであれば、友と敵がはっきり分かれてしまうようなむずかしい問題に覚悟もなくコミットすることは、欺瞞にしかならないとも言うこともできます。

 自分に引きつけて考えると、たとえば中国の人権抑圧の問題が思いあたります。わたしは一般のひとよりは中国の状況をわかっているし、ひどいことが起きていることもわかっている。しかし、かといって現実をすぐに変えるアクションを起こせるわけではない。基本的に中途半端な存在です。この中途半端なコミットメントのなかからなにか倫理や公共性を導き出すとすれば、それはやはり「公平な観察者」として、そこで起きていることを目撃したり、記録したりすることしかないのだと思います。そして「これはひどすぎる」「この点は中国政府の言い分も理解できる」といった価値判断を、ほかのひとの目に触れるかたちで残していく。自分ができることはそれしかないし、それが公共性の出発点ではないかと考えています。

 まったく同意見です。加害でも被害でもない第三項をどう考えるべきかという問題にも通じます。さきほども述べたことですが、いまの社会では「被害者の立場にコミットしないことは加害者を支援する行為である」という二者択一の論理が強くなっている。けれどもぼくはそう思わない。特定の政治的立場にコミットすることだけが公共性ではないはずです。ぼくはそのような公共性を「観光客」や「観客」といった言葉で考えようとしてきました。

 そのうえで言いますと、それを「公平な観察者」と呼ぶことにすこし違和感があります。ぼくの考える観光客は「公平」というよりも「ランダム」な存在です。たとえば梶谷さんとぼくが言い争いになり、どちらが正しいかをだれかに決めてもらうとして、そのだれかはたまたまそのあたりにいるひとから無作為に選んでいいとぼくは考えます。そのひとがどういう考えや属性を持つかはわからないし、公平ではない可能性もある。しかし、そこでほんとうに公平なひとを探そうとすると、「公平さとはなにか」という話になってロールズに逆戻りしてしまう。ランダムな第三者に期待するというのは、市場の倫理に期待するということでもあります。物の売り買いにおいては、だれが買い手になるかはわからない。でもその判断に従うほかない。

梶谷 たしかに「公平」を強調すると問題が起こるかもしれません。センは「とにかく立場のちがうひとたち、とくに外国人を連れてきて、それぞれの立場から判断してもらいなさい」というようなことを言います。そう考えるなら、センの言う観察者はむしろいま東さんがおっしゃった観光客やランダムな存在に近くなるように思います。

 ちょっと飛躍するようですが、ぼくはこれは「親」の問題としても考えています。親はランダムな第三者そのものです。精神分析の伝統においては、親、とりわけ「父」は、社会の象徴秩序を体現する存在だと考えられています。けれどもだれもが知るとおり、現実の親はもっと偏った存在です。すべての子どもは偏った親から生まれ、偏った教育を受ける。子どもにとってどの親に育てられるかはまさにランダムで、「親ガチャ」という表現もありますが、ひとは結局その偶然の条件のなかで主体化し大人になっていくしかないわけです。親とは偶然によって割り当てられた第三者の雛形なのだと思います。

梶谷 その場合、観光客は子どもの立場ということになるのでしょうか?

 いえ。親こそが観光客です。子どもの人生に対して、第三者として中途半端に関わってくる存在としての親。ふつうの親のイメージとはまったく異なりますが、ぼくは親というものはしょせんはそういうものだと思うんです。公平な公共性など存在しないように、公平な親もまた存在しない。公共性も親も、公平が期待されてはいるものの、現実にはランダムに選ばれた観察者でしかない。

梶谷 なるほど。そのお話を聞いて、今年(2021年)の山形ドキュメンタリー映画祭で公開された『理大囲城』(香港ドキュメンタリー映画工作者監督、2020年)のことを思い出しました。

 『理大囲城』は、2019年の香港民主化デモで起きた、香港理工大学での学生デモ隊と警察の衝突を撮影したドキュメンタリー映画です。一歩まちがえば大規模な流血事件にも発展しかねないような、一触即発の状況が克明に記録されています。最初のほうは緊迫した映像が続くのですが、後半になると学生側がだんだんと手詰まりになり、大学に籠城したまま動けないという状態になる。そこで印象的なのが、籠城に参加した未成年の高校生に投降するように呼びかけた、高校の校長たちのすがたです。彼らは民主派の議員たちと大学にやってきて、「いま投降したら逮捕はしないということで警察と話をつけた」と学生の説得を始める。

 むろん、学生たちの民主化運動にコミットする立場からは、そこで校長たちがやったことはデモ潰しであり、中国政府という悪に加担する行為だった、ということになります。しかし、暴力の連鎖という別の悪から子どもたちを救い出す行為だったとも言える。これを軟弱な、中途半端な立場だと批判するのはかんたんですが、それこそまさに「親」の態度であり、公平な観察者の態度なのだと思います。映画でも、こうした「親」つまり大人たちの介入によって逆に学生側の弱さが露呈することになり、最初は死をも覚悟して守ろうとしていた「正しさ」への信頼が、次第に揺らいでいく様子が描かれます。

 

映画『理大囲城』より(2022年12月下旬よりポレポレ東中野他、全国ロードショー)(C) Hong Kong Documentary Filmmakers
 
映画『理大囲城』より (C) Hong Kong Documentary Filmmakers
 

 『理大囲城』は「学生たちの勇敢な戦いの記録」として撮影されていたようで、一般にもそう評価されているようです。けれども、ぼくも梶谷さんと同じところに感銘を受けました。あの記録映像を冷静に見るかぎり、籠城した学生たちは完全に準備不足で、そもそも戦いの体をなしていない。校長たちの言葉だけが、その現実を抉り出す「公平な観察者」の役割を果たしている。それは偏っているかもしれないけれど、むしろそれゆえに第三者の声として機能しているのですね。

梶谷 当時の学生には「攬炒ラムチャウ=死なばもろとも」というスローガンが流行していました。香港がこのまま中国化するなら、いっそ崩壊してしまったほうがましだ、というニュアンスでしょうか。いま振り返れば、あれは非常にまずかった。運動が終わったあと、どのような社会を目指すべきなのかについて、だれもまともに考えていないことを露呈しているからです。実際、そういう建設的な議論をしようとすると、「お前はリーダーになって権力を握りたいのか」と仲間から叩かれるという状況もあったようです。理大の混乱はそういう状況が生み出したものだと思います。

 全共闘運動を想起しますね。「68年の革命」は文化的には意味があったかもしれませんが、政治的にはほとんどなんの成果も残しませんでした。彼らにもきちんとした未来の構想がなかった。

梶谷 冒頭の話題にも関わる話ですが、わたしの知り合いの編集者にも、この映画について加藤典洋さんを引き合いに出しつつ、社会運動からの「戦線離脱」のむずかしさについてSNSで語っているひとがいました。けれども加藤さんは、全共闘の挫折を経て、戦線離脱したあともいかに理念を捨てずに生きるかについて考えつづけていた。大事なのはその姿勢なのだと思います。「これがうまくいかなかったら終わりだ」というヒロイズムを貫いても、なにも生み出すことはできませんし、そういう観点から香港の若者たちを美化する姿勢には大いに疑問を持ちます。

 革命が失敗しても世界は終わらない。「祭り」が終わったあとも人生は続くし、社会も続く。その持続性を考えずに公共性もないという話ですね。

 本日は梶谷さんの思いがけない経歴から始まり、歴史認識と物語、村上春樹とアジア的暴力、「人民の敵」と功利主義など、さまざまな問題について議論することができました。また対話の機会をいただければと思います。長時間ありがとうございました。

2021年11月16日
東京、ゲンロンカフェ
構成・注=峰尾俊彦+編集部
撮影=編集部

 

本対談は、2021年11月16日に行われたイベント「アジア的愚かさと公共性について」を編集・改稿したものです。

 

★1 邦訳は以下など。毛澤東「人民民主主義独裁について」、『毛澤東選集 第四巻』、日本共産党中央委員会毛澤東選集翻訳委員会訳、新日本出版社、1964年。
★2 中国研究者の和田英男によれば、この論文には講話原稿版と『人民日報』版のふたつのバージョンが存在し、両者は論調の性格も異なる(和田英男「国家構成員に関する中国共産党の概念についての通時的考察──『人民』の概念を中心に」、『現代中国研究』第45号、2020年、33-34頁)。本対談で参照された箇所は、後者の『人民日報』版に含まれる。
★3 梶谷懐『日本と中国、「脱近代」の誘惑──アジア的なものを再考する』太田出版、2015年、69-76頁。
★4 宇野重規×梶谷懐「コロナ禍で問い直される『国家』と『個人』」、『公研』、2020年7月号。URL=https://koken-publication.com/archives/592
★5 梶谷懐「『理大囲城』と『公平な観察者』について」、『梶ピエールのブログ』、2021年10月1日。URL=https://kaikaji.hatenablog.com/entry/2021/10/01/013000
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1970年生まれ。2001年、神戸大学大学院経済学研究科より博士号取得。神戸学院大学経済学部講師、助教授、神戸大学大学院経済学研究科准教授などを経て、現在、神戸大学大学院経済学研究科教授。専門は現代中国の財政・金融。著書に『現代中国の財政金融システム』(名古屋大学出版会、2011年、大平正芳記念賞受賞)、『日本と中国、「脱近代」の誘惑:アジア的なものを再考する』(太田出版、2015年)、『日本と中国経済』(ちくま新書、2016年)、『中国経済講義』(中公新書、2018年)『幸福な監視国家・中国』(高口康太との共著、NHK出版新書、2019年)などがある。

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1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。専門は哲学、表象文化論、情報社会論。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞 思想・歴史部門)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第71回毎日出版文化賞 人文・社会部門)、『ゆるく考える』(河出書房新社)、『ゲンロン戦記』(中公新書ラクレ)、『忘却にあらがう』(朝日新聞出版)ほか多数。

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