68年5月10日 飛び魚と毒薬(4)|石田英敬

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webゲンロン 2023年11月17日 配信

 リンク先の写真を見て欲しい★1。画面をスクロールして5番目に出てくるモノクロの写真だ。モロッコ出身のフランス・スイス人の写真家ブリュノ・バルベイ Bruno Barbey (1941-2020)の業績を紹介するページだが、「バリケードを築くために列をつくって舗石をリレーする学生たち 1968年5月10日 パリ」とキャプションが付されている。説明がなければ、まるでミュージカルかなにかの舞台写真かと思ってしまいそうな優雅な写真だ。バルベイはカルチエ=ブレッソン等に出会うことで写真をはじめ、フォトジャーナリスト集団マグナム・フォトのメンバーとして戦争や紀行の写真、政治家・芸術家の肖像写真を残した優れた写真家だが、〈68年5月〉★2についても傑作を幾つも残している。

 で、このリンク先の写真なのだが、潜在的にはベルナールが写っているはずなのだ。撮影されたのは、前回語った5月3日から一週間後の5月10日の夜から11日の未明にかけて。場所は、ソルボンヌから100メートルほどに位置するゲイ=リュサック街。サン・ミシェル通りをリュクサンブール公園の方に行き、左に折れたところからパンテオンの建つサント=ジュヌヴィエーヴの丘をまわり込むようにゴブラン通りの方へ上がっていく、中ぐらいの幅のまっすぐな道路だ。夜に撮られた写真の奥では、煙か靄のようなものが立ちこめていて(催涙ガスか火炎瓶の煙だろうか)、後ろの方の隊列がよく見えないが、だいぶたくさんの若者たちが──バケツリレーの要領で──剥がした舗石のリレーに参加しているようだ。かれらの足元では土の路面がむき出しになっていて、パリの石畳の街を知っている読者なら「あれ〜」と思うはず。道路工事の場面とかを考えれば分かると思うのだが、石畳が敷き詰められたパリの街も、ひとたび舗石を剥がせば、このように土が露わになって「砂浜」みたいになっているわけなのさ。いま語っている〈68年5月〉のあとで有名になったスローガンのひとつに「舗石の下は砂浜だ! Sous les pavés, la plage!」というのがある。みんながあくせく働く「疎外された」近代産業都市の足下には、ほんとうはバカンスの海岸が波打っているんだぜ!、っていう意味だ。若者たちの足下にはいままさにその砂浜が出現したところなのだ★3
 

パリ・ソルボンヌ地区とその周辺の地図。編集部制作

 前回、5月3日の夕刻、サン・ミシェル河岸のジベール・ジュンヌ書店の店頭でモリエール全集の古本を買おうとしていた場面に取り残してきた16歳のベルナールだが、「催涙弾が炸裂した音で振り返ると、ソルボンヌ広場へ直行した。そこではもう〈68年5月〉が始まっていた」と語っている★4。「それから三週間、〈68年5月〉の街頭から離れることがなかった」、「とくに、自分がいたのはゲイ=リュサック通りのバリケードのなかだった」、と。

 そのゲイ=リュサック街のバリケードは、5月10日金曜日から11日土曜日の夜半にかけて「バリケードの夜」と呼ばれるようになる警官隊との華々しい衝突となった現場だ。ベルナールは、若い頃に参加した学生運動のことをまるで自慢話のように得意になって話すような(残念ながら、日本の団塊世代とかにはときたま見かける)インチキ知識人タイプの人ではなかった。〈68年5月〉の経験はかれにとってはどちらかというとネガティブなものと捉え返されていて、その分、多くの言葉を残していない。同じ時代を生き、やや似た経験をもつぼくにもその気持ちはよく分かる。ラディカルな意志のスタイルを示すことは若者の特権で大切なこととは思うが、その後の人生は長く、ひとは世界の複雑さをだんだん学んで自分の思想を育てていくものだからね。

 しかし当時は16歳でまだ若くあったわけだし、この連載の第二回で少し書いたように、高校生運動にコミットし始めていた頃で、デビュー早々の高校生「活動家」としては、水を得た魚状態となったことは想像に難くない。コンドルセ高校のロマン・グーピル君(第二回に登場)の処分反対集会で千人規模の高校生たちが集まって警察の車両をひっくり返す出来事が起こったのが68年の1月。ナンテール校舎の大学生たちの「3月22日運動」に劣らず、この時期、フランスの高校生たちの運動はかなり盛り上がっていた。のちに映画人になったグーピル君が当時から撮りためていたスーパー8mmフィルムを編集して作ったデビュー作に『三十歳にて死す Mourir à trente ans』という1983年のカンヌ映画祭カメラ・ドールに輝いたドキュメンタリ作品がある★5。当時のトロツキスト高校生運動の中心人物で〈68年5月〉では高校生の代表的組織者だったミシェル・ルカナティ Michel Recanati (1950-1978)との出会いと別れを軸に構成した自伝的作品なのだが、ちょっとトリュフォーの『大人は判ってくれない』を思わせるような瑞々しい映像世界のなかに、1960年代の若者たちの青春群像が捉えられている。そんな若者たちの動きの近くにベルナールもいたというわけだろう。

★2 68年5月にフランスで起きたある種の革命については、日本語では、「五月革命」と呼ばれることも多い。それが革命であったのかについてはいろいろな考え方があるだろう。フランス語では、Mai 68と呼ばれるし、英語でも May 68という言い方がふつうである。迷うが、この連載では、山括弧で囲んで〈68年5月〉として、この歴史的出来事を表すことにしたい。 
★3 このスローガンは1968年の3月にはすでに演劇で使われていたという証言、あるいは後になって自分が考え出したという人物の真偽不明の証言などがあり、68年5月に初めて作られたのかどうかについては定かではない。落書きされたスローガンの写真としては68年5月か6月に撮影されたものが一件あるのみである(https://www.lesoir.be/153688/article/2018-04-27/mai-68-une-revolte-en-slogans)。詳細については次のwikipediaの項を参照してほしい。URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Sous_les_pavés,_la_plage_! 
★6 このリンク先のニュース映像を見てもらうと分かる。URL= https://www.lepoint.fr/societe/10-mai-68-au-quartier-latin-la-nuit-des-barricades-01-05-2018-2214957_23.php 
★7 Nagraは、スイスの携帯録音機のメーカー。1958年に発売されたNagra iii は、完全トランジスタ仕様で5キロという軽量でありながら当時のスタジオ録音と同等の音質を実現した。超高感度フィルムとともにヌーヴェルヴァーグの野外撮影を可能にした技術的基盤とされる。URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Nagra 
★8 ジョニー・アリデーのファンが作ったこのホームページを見るとよいだろう。URL= https://johnnyhallydayleweb.forumpro.fr/t17385-les-concerts-de-johnny-la-nuit-de-la-nation-paris-1963 
★9 エドガール・モーランは、ロックとツイスト、トランジスタ・ラジオとLPレコード、という文化と技術の刷新による、いままで存在しなかった「ティーンエジャー」という新しい消費社会カテゴリーの出現を指摘した。「yé-yé世代」の命名は、 ビートルズの”She Loves You” (1963)でYeah!が29回繰り返されることから、なにかにつけYeah!って盛り上がる若者たちという意味で命名したらしい。 
★10 ラジオ放送が果たした役割については、「1968年5月10日 バリケードの夜」を特集した、franceinfoの次のHPを参照。URL= https://www.francetvinfo.fr/societe/mai-68/recit-10-mai-1968-la-nuit-des-barricades-fait-basculer-la-france-dans-la-greve-generale_2715156.html 
★11 ジェスマールはスイス・アルザス生まれ、歴史ある工学系グランドゼコールであるパリ国立高等鉱業学校出身の物理学者。共産党非主流派の学生運動から出発して極左系の学生運動の指導者となり、次いで、極左系の高等教育教員組合(SNESup)の幹部、そして1967年に書記長になった。その後、非合法化・解散させられた毛沢東主義「プロレタリア左派」の指導者となり18ヶ月間服役している。1980年代になって、ミッテラン左翼連合政権になると、国立情報機関の副所長に任命され、服役者の社会復帰のために監獄にコンピュータ教育を導入する政策などを立案し、国民教育行政に力を発揮。1990年代になると社会党ロカール内閣で国民教育監察官、ジョスパン内閣で技術教育担当大臣と政府の要職を占めるようになる。
 左派運動から左翼政権の政府の中枢へという軌跡は、ジェスマールが監獄にコンピュータ教育を導入した時代に獄中にいて、出獄後、国の文化機関の責任者になっていくベルナールの軌跡を考えると興味深い。戦後フランスのエリートたちには、若い頃に極左運動から出発し、次第に政府改革派になっていく例は多い。
 〈68年5月〉に高等教育教員組合が学生運動と一体となって動いているのは現代の日本の若者にとっては意外に感じられるかもしれない。しかし、教員の組合運動が学生の組合運動と一体になって動くのはさほど不思議なことではない。フランスにおいても日本においても教職員組合は、学生たちの動きとテーマによっては歩調を合わせることは比較的よくあることだ。特に左派系の教職員組合の場合には(フランスにおいても日本においても組合運動はおもに左派が担ってきた)学生と政治的主張が一致することはよくある。
 他方、〈68年5月〉において、ジェスマールのような人物が最初から主要な役割を果たしたことには、この時代特有の複数の理由があったと考えられる。一つには、大学教職員組合運動のなかで、共産党系主流派から決別して「大学における小さな革命」を掲げる若い世代が主導権をとったこと(つまり、いわゆる「新左翼」という理由)。ジェスマールはその代表者だった。第二に、社会のなかでの大学の位置が変化しつつある時代で、大学変革の気運が若手研究者・教員に広まっていたこと(「大学変革」あるいは「大学解体」という理由)。第三に、アカデミズムの世界でも、新しい学問分野の発達で、伝統的学問に依拠する教授たち旧世代と若手研究者・教員とのあいだに、世代断絶が拡がりつつあったこと(「知の断絶」という理由)。これらの要因により、ジェスマールのような、過激な政治主張をもちながら、優れた研究者でもある若手教員が、学生の動きと呼応して影響力をもつ条件が揃っていた。その後の彼の政治的キャリアは、このような歴史的社会的文脈と深く結びついていたと考えられる。日本の1968-69年の東大紛争における「助手共闘」など若手研究者・教員の運動にも、これと似た背景にあったと考えられる。 

 

石田英敬

1953年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。専門は記号学、メディア論。著書に『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)、『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書)、『新記号論』(ゲンロン、東浩紀との共著)、『記号論講義』(ちくま学芸文庫)、編著書に『フーコー・コレクション』全6巻(ちくま学芸文庫)ほか多数。
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