愛について──符合の現代文化論(8)「キャラクター化の暴力」の時代|さやわか

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初出:2021年3月25日刊行『ゲンロンβ59』
 あるキャラクターについて、あるいは現実の人間について、言動や佇まいに記号性を感じることは、十分にありうる。しかしその記号と意味の結びつきを唯一無二のものと考え、固執してしまうと、相手をその範疇でのみ判断し、固有の人格として認めない「キャラクター化の暴力」へとつながる。

 しかし前回見たとおり、キャラクターが即暴力と結びついているわけではない。東浩紀が『動物化するポストモダン』(2001年)で提唱した「データベース消費」は、90年代のオタク文化を例に挙げながら、今日のポストモダン社会では記号に対する意味内容が常に書き換えられる可能性があるとしていた。つまりデータベース消費を行える社会なら、キャラクター化の暴力は回避できると。

 ところが現実は、東の考えたようにはならなかった。そもそも彼が分析の対象としたオタク文化すらが、キャラクター化の暴力から逃れられなかった。オタクたちはキャラクターを一面的に捉え、その範疇から逃れることを許さないようになっていった。声優やアイドルなど「三次元」のオタク文化が台頭した際には、人間すらキャラクターとして捉え、彼らの思う一対一の結びつきから逃れようとする者を許さなかった。そうした他人に対する傲慢さが引き金となって生まれる軋轢は、ゼロ年代以降、悪化の一途をたどっている。2010年代には恋愛スキャンダルに巻き込まれた女性アイドルの芸能生命が危ぶまれたり、アイドル自ら丸坊主になって謝罪するような事件が大きな話題となった。彼女たちがそこまで社会的に、また精神的に追い詰められたのも、彼女たちを「清純なアイドル」というキャラクターとして扱う世間からの抑圧があってこそだ。

 東が分析したオタクたちの消費行動には希望があった。ゼロ年代以降、何が変わってしまったのだろうか。

 



 ゼロ年代になって、オタクは脚光を浴びた。秋葉原が観光地化し、ネット掲示板「2ちゃんねる」発の小説『電車男』(新潮社、2004年)がベストセラーになった。発行部数は100万部を超え、映画化やドラマ化なども成功している。

 こうした中で注目された議論として本田透『電波男』(三才ブックス、2005年)がある。この本の主旨をごく簡単にまとめると、オタクたちは現実の愛情関係に与せず、二次元キャラクターに「萌える」ことで満足しており、だからこそ今日の社会における勝者なのだ、ということになる。なぜなら、現実社会に愛などないからだ。本田は以下のように書いている。


 そうだ、恋愛資本主義の世界には、愛を名乗る商品が腐るほど流通している。だが、現実にはどうなのだ、愛はどこだ? 日本は経済を復興させ、あらゆるものを手に入れた。だが、愛だけがない!
 第一章でも説明したとおり、神のいない現代において、人間は愛なしには生きられない。かつては「家」こそが「永遠」を保証してくれた。しかし見合い制度と家制度が崩壊した現代日本では、恋愛こそが唯一の「永遠」であり「愛」なのだ。
 この世は、愛のない世界。だが、人が生きる上で、愛は必要だ。人間は、この内面から湧いてくる愛の衝動、愛されたい・愛したいというエネルギーを、適宜発散しなければならない。愛が満たされていると感じるときに、人間は、自我の安定を得られる。愛とは自我に存在価値を与えてくれるものなのだから。もし愛を塞き止められると、自我が不安定となる。彼にはもはや、心安らげる時がない。生きる限り、孤独な世界にひとり取り残され、自我を安定させられない苦悩が続く。こうして長年塞き止められた愛は、怒り・妬み・怨み・嫉み・憤り・僻みに変質していく。故に、愛を得られない人は鬼畜化する。★1


 本田は、「鬼畜化」を防ぐためにこそ、オタクは「萌える」のだとしている。

 宮台真司は『不純異性交遊マニュアル』(2002年)の中で、性的アノミーが蔓延した社会における人々の不毛感が、「性的コミュニケーションからの退却を生む」とした。だが本田は、オタクならば、現実の性的コミュニケーションから退却しても、二次元キャラクターを愛することで満たされると言うのだ。社会が自分たちに愛を供給しないのであれば、二次元キャラクターに対して愛情を持つことで、「愛されたい・愛したいというエネルギー」を発散できると、本田は主張する。

 



 しかし本田の「萌え」についての主張は、論旨そのものよりも気になる点がある。それはオタクたちが現実に恋愛をする者よりも優位だということの強調、さらに言えば本田の言う「恋愛資本主義」に毒された女性たちに対する批判的な態度である。

 そもそも、恋愛資本主義とは何か。本田によれば今のポップカルチャーは恋愛至上主義に満ちており、恋愛を商品化することで人々を消費行動に走らせている。代表的な例としてイケメン俳優や人気女優をキャスティングしたトレンディドラマやラブソングがあり、またファッション誌なども男女を問わず、恋愛を軸にしたカルチャーやブームを仕掛けるのに躍起になっていると言う。
 本田にとって世の女性たちは、この恋愛資本主義に洗脳された忌むべき存在である。ゆえに『電波男』は全編を通して、ミソジニー(女性嫌悪)を背景にしながらオタク論を展開する。本田は『電波男』の書名がパロディにしている『電車男』も、オタクに現実の女性との恋愛を唆し、恋愛資本主義へ向かわせる悪書として糾弾している。

 



 本田がミソジニーを抱き、恋愛資本主義批判を繰り広げたことを、彼がオタクであるがゆえだと考えるべきではない。この時期から、他にも似たような主張を行う論者が現れるようになった。

 コラムニストの堀井憲一郎は、『電波男』の翌年に刊行された『若者殺しの時代』(講談社現代新書、2006年)の中で、本田が恋愛資本主義として批判したものについて、より詳細に議論している。

 堀井は同書で、女性向け雑誌『アンアン』(集英社)に注目している。この雑誌は1983年12月23日号で「今夜こそ彼の心をつかまえる!」というクリスマス特集を組んでおり、堀井はこの特集によって、クリスマスが「恋人たちのものになった」のだと言う。


 そのなかに「クリスマスの朝はルームサービスで」というページがある。シティホテルに泊まって、朝、ルームサービスで彼と朝食をとろう、という記事だ。なるほど。当時はおもいもつかなかった。たぶん僕が男子だったからおもいもつかなかったんだとはおもうが。
[……]
 そしてそれは同時に、若者から金をまきあげようと、日本の社会が動きだす時期でもある。「若者」というカテゴリーを社会が認め、そこに資本を投じ、その資本を回収するために「若者はこうするべきだ」という情報を流し、若い人の行動を誘導しはじめる時期なのである。若い人たちにとって、大きな曲がり角が1983年にあった。女子が先に曲がった。それを追いかけて、僕たち男子も曲がっていった。いまおもうと、曲がるべきではなかった気もするが、当時はどうしようもなかったのだ。★2


 堀井が言うのは、まず恋愛がらみの消費文化に先に乗ったのは女性であり、男性は彼女たちを「追いかけて」、恋愛をエサにした消費文化に巻き込まれていった、ということだ。というのも、この頃に若い男性向け雑誌の代表格であった『ポパイ』(マガジンハウス。当時は平凡出版)では、毎年クリスマスの時期に「サンキュー、オリーブ!」という特集を組んでいた。これは要するに「(自分が)恋人からプレゼントされたいものカタログ」であった。堀井はこれを根拠にして、「ばかな男子とおませな女子でうずまいてる中学校の教室を覗いてるような気分」だと言う。つまり当時の若い男性はクリスマスにロマンティックな思いなどみじんも感じず、無邪気に物欲ばかりを抱いていたと言うのだ。ロマンティックな恋愛をしたいと考えているガールフレンドの気持ちを踏みにじり、無遠慮かつ一方的にプレゼントをねだるがごとき特集記事は、今にして思えば男尊女卑的ですらあると述べている。
『ポパイ』はその後、80年代後半になってようやく「Xmas、今年こそキメてやる!」(1987年12月16号)という特集を組み、ガールフレンドと行くべきレストランやホテルの紹介を盛り込んだ記事を掲載する。男性誌もぞんざいにプレゼントをねだる態度を脱却し、『アンアン』のようなロマンティックなクリスマスデートを提案する時代になったわけだ。では堀井がこれに満足するかと言えば、むろんそうではない。むしろこの風潮に競合誌である『ホットドッグ・プレス』(講談社)も追随した翌1988年こそが、「クリスマス・ファシズム」の始まった年であると、堀井は結論づける。この年から社会全体が、「クリスマスは恋人たちの日である」とのスローガンを旗印にして、若者に消費行動を取らせようとするようになったと言うのだ。

 堀井によれば、その後の社会は「どこかおかしい」と思いながらも、「クリスマスを拡大させていった」のだと言う。


 クリスマスが拡大していくとはどういうことかというと、あらゆる男女がクリスマスイブにフランス料理を食べに行ったということだ。元気な男はクリスマスイブに二つ、クリスマス当日に一つ食べに行ったりした。早めに食べてホテルに入って浅い時間に出てきて別れて、そのあと深夜コースでもう一人すませて、翌日も一人というわけである。みんなおかしかったのだ。
[……]
 最初はロマンだった。女性にとってのロマンが少なかった時代にクリスマスをロマンチックな日にしたいと希求した。願いはかなえられたが、スーツを着たおとなたちがやってきて若者向けのイベントとしてシステム化し、収奪機構として整備し、強迫観念として情報を流し続けた。目的がしっかりしてるからシステムが強固である。子供は素直に信じる。子供は十年で若者になる。1983年にシステム化された「恋人たちのクリスマス」は、冬至の祝祭の呪縛のように、人間社会の発生とともにあった制度然として存在してしまっているのだ。もう逃れられない。★3


 堀井と本田の考えには、重なる部分が多い。まず大前提として彼らは、愛が尊いものだと考え、大きな価値を感じている。その上で、それをカネ儲けに利用しようとする「おとなたち」を想定し、男性よりも前に女性たちがそれに騙されたのだ、という言い方をする。そして両者とも「資本主義」「ファシズム」という用語で、政治的な比喩を込めた強い反発を示している。

 そこにあるのは、『電波男』が「愛とは自我に存在価値を与えてくれるもの」と訴えたような、愛の絶対的な尊さを認める気持ちに他ならない。つまり本田や堀井は、恋愛を重視することそのものを否定するわけではない。むしろ彼らにとっては、世の中ではなく自分たちこそが、愛の価値を重視していると考えているわけだ。

『電波男』は、酒井順子『負け犬の遠吠え』(講談社、2003年)を筆頭例に挙げながら、オタクたちこそが愛を尊いと思っているにもかかわらず、恋愛資本主義者たち、とりわけ女性たちが、彼らを恋愛対象と見なさず、それどころか蔑んでいると言う。

 二次元の萌えキャラとの脳内会話を続けることだけが、俺の鬼畜ルート行きを防いでくれたのだ。[……]そんな人間の生きようとする意志を、引きこもって萌えることで自殺や鬼畜化から自分を守ろうとする姿を、なぜ恋愛資本主義の人々は、鼻で笑い、差別できるのだろうか?★4


 本田が訴えるオタクたちの悲しみは、愛の価値を信じ、そして挫折を味わうという意味で、実は本田が敵視する恋愛資本主義に与する者たちが抱くものと変わらない。しかし本田は、彼らも自分たちと同じだなどとは説かない。オタクは彼らに迫害されたのだから、逆に彼らを殴り返しても許されるだろう。そうした考え方から、『電波男』は、女性への攻撃的な論調を全面的に展開する。

 他方『若者殺しの時代』は、女性の恋愛への純粋無垢な気持ちが「おとなたち」の食い物にされたという書き方で、女性たちを擁護しているように見える。だが実は、両者は「女性は男性に先んじて恋愛資本主義に騙された」「男性こそが愛の価値を純朴に信じていた」という、共通する考え方に基づいて書かれている。

 もっとも、この主張には疑わしいところがある。たしかに80年代初頭の『ポパイ』のクリスマス特集は、「(自分が)恋人からプレゼントされたいものカタログ」だった。男女の恋愛関係が特集のフックになってはいるものの、内容自体は単に「オレの欲しい物」を並べた、物欲を満たすことに主眼を置いたものだ。恋愛そのものを消費の対象にしているわけではない。だからこそ堀井は、既に恋愛資本主義に蝕まれていた女性に対して、男性はなお純朴であったと言うのだ。

 しかし件の『アンアン』クリスマス特集が掲載される数ヵ月前、『ポパイ』の1983年8月号では「ポパイのOFFICIALおんなのコHANDBOOK」という特集が組まれている。これは同誌が初めてガールフレンドとの交際をテーマにした特集で、のちに「デートマニュアル」と呼ばれたような雑誌企画だった。誌面は「都心ホテルを彼女にプレゼント」「女のコを惑わす魔法の酒、リキュール」などの記事で構成されており、これが読者に対して恋愛を中心とした消費文化を推奨しているのは明らかだ。

 ちなみに『ホットドッグ・プレス』は、この『ポパイ』の記事のさらに前年の5月号でデートマニュアル特集を掲載していた。『アンアン』が恋人との同棲や男性のセクシーさなど、恋愛を主軸にした特集を本格的に打ち始めるのは1983年からなので、むしろ男性誌のほうが女性誌よりも恋愛資本主義に早くから参入したとすら言える。

 まさか堀井も、それらは単なるデートマニュアル記事なのだから、恋愛資本主義を推進するものでも許される、とは言うまい。だがそれでも彼は、80年代後半になって『ポパイ』や『ホットドッグ・プレス』がクリスマス特集を掲載したことのほうを「ファシズム」の端緒だとして問題視する。キリストの降誕祭を肴に若者をいちゃつかせカネ儲けに利用したことが悪いと言うなら、堀井の主張もそれこそ本田と同じく、男性こそが愛の崇高さを信じており、女性が先にそれを裏切ったという論調に近いように思える。「資本主義」「ファシズム」などの言葉で、搾取的な支配勢力をこそ糾弾しているようでありながら、彼らが言外に主張しているのは、男性には当初、恋愛を消費対象にしないだけの無垢さがあったが、女性たちは先んじて恋愛資本主義に毒されたということなのだ。

 



 もっとも、筆者が言いたいのは、男性のほうが女性よりも恋愛資本主義に積極的だったのだとか、本田や堀井にはダンディズム的な女性軽視があるということではない。注目すべきなのは彼らが、女性のほうが恋愛資本主義に毒されやすく、逆に男性はそうではないと思ってしまうこと、それ自体である。そこには女性や男性のあり方について、彼らが自らの固定観念のみで捉える態度、つまり他人を人格として認めず、ジェンダーバイアスで判断するキャラクター化の暴力が働いている。

 連載の第4回で、70年代の少女漫画に男性読者が多かった例を紹介したように、かつてマンガやアニメの男性ファンたちは、どちらかというと女性の思考や感性に好感をおぼえていた。しかし『電波男』あたりから、こうしたオタクによるミソジニーが目に付くようになっていく。

 ただ一方で、本田が、自分がオタクであるせいで恋愛対象と見なされなかったと述べていることも見逃すべきではないだろう。本田は、女性たちからオタク=恋愛対象になりえないというキャラクター化の暴力を差し向けられ、それに対する復讐として、彼は同じ暴力を女性に対して振るった。それが『電波男』という本だった。『動物化するポストモダン』からわずか数年で、東が希望を込めた、常に記号と意味の関係を捉え直せるデータベース消費を身につけた90年代的なオタク像は失われたのだ。

『電波男』が敵視した『負け犬の遠吠え』がブームになったのは2004年のことだ。堀井が『若者殺しの時代』を書き、女性に対して一面的な捉え方を見せたのも同じ頃である。オタクに限らず、この時期から「キャラクター化の暴力の時代」が始まり、人々が無自覚に、あるいは公然とこの暴力を行使し、互いに傷つけ合い始めたわけだ。その暴力はゼロ年代後半からはSNSを中心に人々のあいだへさらに広がっていき、15年たった今ではほとんど毎日のように、争いの火種となっている。
 前回述べたように、キャラクター化の暴力を避けるには、むしろ自分が他人をキャラクターとして見ていることへ自覚的になることが有効である。キャラクターとは記号表現であるため、その意味内容が常に更新される可能性がある。東が『動物化するポストモダン』で重視したのは、その更新可能性だった。それは裏返せば、他人をキャラクターとして見ているなら、その人が持つ意味も一定ではないと、自覚できるはずであることを意味している。

 だとすれば、人々の様々な予断的思考に対して、ブレーカーが発動することも可能だったはずだ。たとえば酒井順子であれば、恋愛対象になるオタクもいるかもしれないと考えることができたはずだ。あるいは、今そのように思えなくとも、将来に考えが変わる可能性を理解できたはずだ。また本田透にしても、女性の中にもオタクを差別しない者がいることを期待できただろう。『電波男』が「女性のオタク」にほぼ言及していないように、そもそも本田の想定するオタク像の範疇にないオタクがいることにも気づけたかもしれない。もちろん、堀井も「女性の方が恋愛資本主義に積極的だった」という断定こそを疑ってみたはずだ。

 とはいえ、このような解決策は要するに「皆が賢く、自律的であるよう心がければ、社会はよくなる」というものでしかない。目指すべき理想ではあるが、誰もがそのように、また常に、君子たりえるとは限らない。したがって筆者としては、そのような啓発と並行して、人々がキャラクター化の暴力を引き起こしてしまう社会的条件の改善について考えたい。

 キャラクター化の暴力の時代が始まったのは、なぜゼロ年代半ばだったのか。その時期に人々が他人について、愛執の念をもって断定的に扱うようになった社会的条件とは何か。次回はそれについて、インターネットカルチャーの側面から考察する。

次回は2021年5月配信の『ゲンロンβ61』に掲載予定です。


★1 本田透『電波男』、講談社文庫、2008年、317-318頁。
★2 堀井憲一郎『若者殺しの時代』、講談社現代新書、2006年。電子版より引用。
★3 同前。
★4 本田透、前掲書、349-350頁。
 

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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