情念の白い墓標(最終回) 新劇の人びと|入江哲朗

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初出:2012年10月31日刊行『ゲンロンエトセトラ #5』
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9.


 中村伸郎のぶおさんをはじめ新劇の人に囲まれてやってみて、まだまだ自分の演技の未熟さを知った──この言葉は、さきに引用した山崎豊子による追悼文のなかで、田宮二郎が電話でしばしば彼女に漏らした弱音として伝えられている(前節参照)。実業の夢に敗れ、深刻な鬱に苛まれていた1978年秋の田宮は、もはや役者としての自分に対しても自信を失いかけていた。ドラマ『白い巨塔』というライフワークに彼は死にものぐるいで取り組んでいたものの、東教授役の中村伸郎や鵜飼教授役の小沢栄太郎といった「新劇の人」の強烈な存在感は、田宮に映画スターとしての道半ばで大映を追放されたという自分の傷ついた経歴を意識させずにはおかなかっただろう。たとえば三島由紀夫は、田宮が名前を挙げた中村伸郎について次のように記している。1968年の文章である。

 現今の新劇俳優で、セリフと間において、中村伸郎氏以上の人を私は知らない。少しもケレンがなく、ギラギラしたところがなく、いはゆる花に乏しいうらみはあるけれど、中村氏のセリフぐらゐ、よく考へ抜かれ、磨き抜かれ、感情のどんな些細な陰翳をものがさず、しかも正確無比、完璧なデッサン力を持つたセリフを、日本では他に聴くことができない。又、独白劇、殊にチエホフのやうな芝居では、間の効果が芝居の死命を制する。中村氏の間の計算のおそろしい的確さと、しかもそこに漂ふユーモアとペーソスは、かうした小劇場で、百パーセントの芸術的成果をあげるにちがひない。

(「聖女」と「煙草の害について」)

 新劇とは本来は、歌舞伎などの伝統演劇(「旧劇」)に対抗して明治以降の日本にあらわれた近代的な演劇全般を指す言葉であるが、その理念の形成においてとりわけ重要な役割を果たしたのは、小山内薫おさないかおる土方与志ひじかたよしが「演劇の実験室・新劇の常設館・民衆の芝居小屋」のスローガンを掲げて1924年に開設した築地小劇場であった。小山内の死により築地小劇場はわずか5年で分裂の憂き目に遭うものの、その間に上演された戯曲は117本にものぼった(そのほとんどが翻訳劇である)。1908年生まれの中村伸郎と1909年生まれの小沢栄太郎はともに、この築地小劇場での芝居を目の当たりにして感動した経験が、役者の道を志すきっかけになったと告白している。その後の紆余曲折を経て、中村は1937年に杉村春子らとともに文学座を、小沢は1944年に東野英治郎らとともに俳優座を結成した。この2つの劇団は、のちに劇団民藝とあわせて「三大新劇団」と称されるまでに知名度を高め、現在もなお活動を続けている。中村伸郎と小沢栄太郎はまぎれもなく、日本の新劇史の中心人物と見なすべき存在であった。

 そんな両者がドラマ『白い巨塔』に出演しているという事実は、もちろん、この作品に制作陣が傾ける熱量の大きさを物語るものではある。キャストの豪華な顔ぶれは視聴者の話題も呼び、だからこそ田宮は「新劇の人に囲まれて」いるというプレッシャーを強く感じることとなった。しかし実は1978年当時、中村伸郎はすでに文学座の団員ではなく、小沢栄太郎もまた俳優座を離れてフリーへ転身していた。なかでも『白い巨塔』に至るまでに中村が辿ってきた新劇俳優としての足跡は、田宮の映画俳優としてのキャリアがそうであるように、きわめて数奇なものであった。その意味で、『白い巨塔』というテレビドラマにおいて実現したキャスティングは、もはや絶頂期を過ぎた日本映画と新劇というふたつのジャンルがこうむってきた波乱と、決して無縁のものではなかった。

入江哲朗

1988年生まれ。アメリカ思想史、映画批評。東京大学大学院博士後期課程修了。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員PD。著書に『火星の旅人――パーシヴァル・ローエルと世紀転換期アメリカ思想史』(青土社、2020年)、『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』(共著、石岡良治+三浦哲哉編、フィルムアート社、2018年)など、訳書にブルース・ククリック著『アメリカ哲学史――一七二〇年から二〇〇〇年まで』(大厩諒+入江哲朗+岩下弘史+岸本智典訳、勁草書房、2020年)など。
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