日常の政治と非日常の政治(1) オール・オア・ナッシング──「不完全な制度」か「制度の空白」か|西田亮介

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初出:2015年12月1日刊行『ゲンロン1』
 今号から、政治参加とその可能性についてコラムを連載させていただくことになった西田亮介といいます。情報(化)の社会学、公共政策学を専門とする研究者です。

 もしかするとネット選挙研究や、デジタル時代におけるジャーナリズムに関する仕事はどこかで見ていただいたこともあるかもしれません。このほかにも若年無業者についての研究(『無業社会』、2014年)や地域振興についての研究と実践をやってきました。これまで地域ブランドをつくったり、協働推進条例の検討委員や、その条例の効果測定の委員などを務めたりしたこともあります。

 そのほか、そのうちこのコラムとも関係してくるはずですが、この8月まで千葉市の広報広聴課というところで、非常勤の地方公務員を、大学、市役所双方の正規の手続きを踏まえ兼職していました。行政の情報発信のために必要な条例や内規等のルールづくり、組織づくり、情報の分析など、本職の地方公務員のみなさんと、週1日、9時から5時まで、いわゆる公務員のタイムスケジュールで働き、2時間近い時間をかけて通勤していたのです。

 また、大学で働く前に中小企業基盤整備機構という中小企業振興を手がける独立行政法人に勤務していたこともありました。中小企業向けの政策というと、町工場や町なかの小売店を思い浮かべるかもしれませんが、日本の中小企業基本法は、商店街や中心市街地振興から、むろん町工場、ベンチャー企業、クールジャパンや海外展開、融資、人材育成、事業承継と、大変広範な政策分野を含んでいます。ぼくもこれらについて、当時、ひと通り勉強しました。

 そして、こうした経験は、たとえば、地方自治の項目を担当した懐かしい、「憲法2.0」★1などで活かされています。インターネット的な世界観を、穏健リベラルな改憲案に架橋したものの、あまり話題にならなかった「憲法2.0」ですが、東浩紀さんの慧眼というべきか、時局より少々早すぎたのかもしれませんね。しかし、安保法制や憲法問題が議論される現在だからこそ読み返す価値があるのではないでしょうか。

 京都の前任校を離れて、ちょうどこの9月1日に東京工業大学に准教授として着任しました。学部生から院生まで全学生向けのリーダーシップ教育やPBL(課題解決型学習)を含めた広義のリベラルアーツ教育を本務として、2016年4月から新設のリベラルアーツ研究教育院に異動し、17年度から大学院の院生募集を開始して、本格的な店開きとなるはずです。ぼく個人にとっては、2015年はこうした節目の年にあたるわけですが、そのような年に心機一転『ゲンロン』で連載を持てることを嬉しく思います。

 



 ところで今回、東さんとゲンロンから『ゲンロン』創刊にあたっていただいたリクエストは、「政治参加の可能性」というテーマでした。初回なので、少しこの主題を掘り下げていくことにしましょうか。それはきっと「政治参加の可能性」を論じる前提である、ぼく個人の政治観を紹介することにもつながることでしょう。

 政治参加は、時局的なテーマであると同時に息の長い主題でもあるという二面性を持っています。政治(参加)は、「非日常の政治」と「日常の政治」に分けることができます。「非日常の政治」とは、たとえば、日本社会の場合は、安保問題や憲法改正が該当するでしょうか。生活世界の重要な存続条件を規定しつつも、ぼくたちの日常的な想像力や常識を適用することが必ずしも「正しくない」ことがある世界の政治です。

 想定されているのは例外事態や非常大権です。生活世界や「日常の政治」を維持するために、その外部に目配りと調整、介入が必要であることを、政治学や政治哲学、社会学は長く議論してきました。そういう類の政治のことです。優れた社会学者であり、また政治学者でもあったマックス・ウェーバーは、マルクス主義的な社会分析に共感しつつも、実際の統治の形態について、社会主義の官僚制化は不可避なものとみなしています(『社会主義』)。乱暴にまとめると、統治や行政にも、やはり専門知が不可欠であり、もし仮に社会主義革命が起きたとして、しかしそののち、やはり非労働者、つまり官僚の知恵が必要になるので、定義上、社会主義政府はうまく機能しないのではないかと半ば予言的に述べています。

 それに対して「日常の政治」とは、より日々の生活に密着した政治のことです。社会保障、地方自治、さらに冒頭に言及したような、正確には行政に区分される主題も、政策形成過程まで含めれば十分な政治性を帯びてきます。

 政策形成過程に注目するというのは、制度や政策の立案や内容に関して、どのような主体が、どのような目的を持って、コミュニケーションしているのか、またその環境条件やインセンティブの配置、組織能力等に目を向けるということです。

 このプロセスには驚くほど多様なステークホルダーが、本来の政策目的と無関係に登場することがわかります。こうした総体を含めるとそこには十分な政治性を見出すことができるでしょう。

 こうした「日常の政治」の世界に関しては、例外事態はほとんどの場合において認められません。ペナルティの対象として処理されてしまうことになります。

 たとえば、デモは「日常の政治」と「非日常の政治」の交差点のようなものでもあります。選挙もそうですね。このように認識するならば、ぼくの政治参加観(そして、これまでの仕事)は、「日常の政治」に主軸を置きつつも、選挙やジャーナリズム研究を通して、「非日常の政治」についても扱ってきたということになるでしょうか。

 ただ、それではいわゆる「市民派」なのかといわれると、おそらくはそうではないと思います。
 社会の寛容性や言論の自由を擁護することには強く賛同する一方で、たとえば安保法制や憲法改正については必ずしも反対の立場を取りません。しかし、このような考えに至った理由について以下を読んでもらえれば、共感しなくとも認識についての理解はいただけるかもしれません。

 



 よく知られているように、2015年は太平洋戦争終結から70年にあたります。例年よりもさまざまな話題が取り上げられ、メディア・イベントになりました。

 とはいえ、この『ゲンロン1』が手に取られているころにはすっかり忘れ去られているのではないかと危惧しているのですが、安倍晋三総理が戦後70年談話を発表する前は、いわゆる「村山談話」の反省とお詫びを継承しないのではないかなどといわれていました。

 しかし蓋を開けてみれば、自民党議員の勉強会でのメディアへの介入強化を肯定するとも取れる発言や安保法制が紛糾し、第二次安倍内閣発足後最低の支持率を記録したこともあってか、玉虫色の、無難な内容に落ち着きました。そこでは村山談話も継承されていることになっています。

 この談話は、政策実務家のあいだでも決して悪くない評価を受けています。安保法制は、9月19日の未明に参議院本会議で採決が行われ可決されました。当初予想よりは成立に時間がかかったものの、それでもやはり事前の予想どおりに廃案にはなりませんでした。

 なぜ自衛隊関係者や官僚ら、政策実務家が比較的ポジティブな反応をしているかについては、本コラムでいずれ取り上げます。

 端的にいえば、制度の空白が生み出すリスクと、不完全でも制度が存在することで生じるリスクを天秤にかけていることに起因しています。

 さて、求められているのかどうかはわかりませんが、何かの分水嶺のような気もしますので、ここで踏み絵がてら、ぼく自身の安保法制に関するスタンスを明確にしておくことにしましょう。

 何らかの安保法制は、個別の政策として必要だと思います。現在の地政学的リスクに対して、現状の法整備より踏み込んだ内容の法制度がなければ、それこそ偶発的な緊張状態や近海での小規模な軍事行動に対処するにあたっての明文化された法制度が不足するとみられるからです。

 安保法制は、巷では戦争を誘発するかのように批判されていますが、かといって、何らかの法制度がなければ、時の政権に判断を委ねることになってしまいます。

 法制度の不在は、相応のリスクを伴います。この問題を考えるにあたって、たとえば1995年の阪神・淡路大震災を思い出すのがよいと思います。当時、都市型災害の法制度は十分ではなく、政府や関連機関の発災後の初動は遅れ、中長期の復旧復興も手探りの状態で行われました。
 確かにボランティアの活躍などが脚光を浴びましたが、縦割り行政の弊害や孤独死、まちづくりなど多くの分野で、制度不在による課題が露呈しました。

 なかでも、自衛隊の災害派遣の遅れはその最たるものといえるでしょう。阪神・淡路大震災時には、自衛隊の出動には当該自治体からの要請が必要でした。ただ前例も乏しかったので、被災自治体が躊躇し、初動が遅れたという指摘もされています。

 阪神・淡路大震災を教訓に、現在では、要請のチャネルも、そして命令も多角化されました。それが、たとえば東日本大震災や、9月の台風18号に伴う大雨による鬼怒川決壊などの現場における自衛隊の災害派遣に活かされています。2011年の東日本大震災では3月11日の15時30分には、政府が「自衛隊の災害派遣に関する訓令」に規定する「大規模震災」に指定しています。これは震災発生から約45分後です。むろん改善の余地はありますが、相当に早い意思決定といえるのではないでしょうか。 

 安保法制の必要性についても、自然災害か、人災かという原因こそ違いますが、問題の構造は似ています。

 確かに不適切な法制度は正統性の危機をもたらしますが、法制度の不在も同様に、あるいはそれ以上にリスクをもたらします。現場の混乱、場当たり的対応、縦割り行政の根源だからです。制度に課題があるなら運用のなかで修正したり、政令や省令、通達など運用で対応できる可能性がありますが、制度それ自体が存在しないとなると、なかなかそうもいきません。つまり安保法制をめぐる隠れた争点は、「100パーセント完璧にリスク排除した制度でなければ不要である」とする立場と、「不完全でも、一定程度実践性を有する制度であれば必要である」と見なす立場の対立だったともいえます。むろん前者が安保反対の立場で、後者が肯定的な立場でした。

 比較衡量はなかなか難しいですが、「適切な、立憲主義にもとづく、しかし現実の地政学的リスクを踏襲した安保法制」は必要ではないでしょうか。ただし、その一方で、現在の政権で成立させることについては反対です。幾つか理由はあるのですが、少なくとも、この内閣は、従来の憲法解釈を変更する安保法制の改正という明らかに重大案件を、正面から国民に問うという作業を怠っているからです。

 もっと平たくいえば、2012年の衆院選も、2014年の衆院選も、争点は「アベノミクス是か非か」であって、安保法制ではありません。安全保障上の重要な変更事項が、マニフェストのなかに書かれていたかどうかはさておくとして、安倍内閣が自ら争点化することはありませんでした。

 むろん、選挙は政治参加のすべてではありませんが、しかし同時にいまの政権がいうように、本当に喫緊で、実務上必要なら──つまり従来の憲法解釈を変えてでも必要とするのならば、正面から争点化し、国民の判断を問うのが筋であるはずです。

 そのうえで反対が勝るなら、それは仮に法案の内容が合理的だったとしても民意として受けとめるか、あるいは、マックス・ウェーバーがいうところの「職業としての政治家」ではないにしても、それでも政治家としての「信念」を貫き通すのかが問われることになるでしょう。

 ただ、個人的には、現行内閣に、自民党の歴史や安部総理の祖父である岸信介の骨を拾うという以上の、国民と国家の便益の向上を一義とした信念を見出すことができませんでした。したがって形式的には、正統性を調達した/しようとしていることは認めざるをえず、安保法制単体では一定の合理性を有する政策だとは思いますが、いまの体制に、このような改正や、その運用を委ねたいとは思えないというわけです。
 余談ですが、ゲンロンカフェでの宇野重規先生と東さんの対談で、なぜかトイレに立った東さんのつなぎでぼくが登壇させていただいた回★2や、三宅洋平さんとぼくの対談★3、開沼博さんとの対談★4などをご覧いただければ、より理解を深めていただくことができるのかもしれません。

 ぼくのこの10月からの東工大での講義の名称を「社会のなかの民主主義」「メディアと民主主義」としました。政治学者は、主に政治システムの内的な合理性や権力配分のあり方、制度設計、政策形成に関心を持ちます。

 他方、最近では社会学会からも足が遠のき、公共政策系の学会を中心に仕事をしていますが、もともとは社会学をバックグラウンドとするぼくは、社会システムのなかにおける政治のあり方や、社会システムを維持するファンクションとしての政治のあり方、合理性に関心を持ちます。


 社会学を出発点とするため、ぼくは後者に重きを置いています。そして両者は一見似て見えますが、重複する部分もあれば、そうではない部分もあります。

 最近では、後者における合理性、とくに方法論としての「理性」、もっと開いていえば、政局を理解するためのフレームワークとその形成について関心を持っていますが、たとえばいくら法案が合理的でも、政治家、そして有権者の認識がそれらを非合理的と認識していれば活用されないということがありえるわけです。

 政治学的にはメインではなく周辺のテーマということになるかと思いますが、(政治)社会学的には重要なトピックです。

 今回は、社会学者が政治(参加)を論じることの意味と問題意識を述べてきましたが、あっという間に、紙幅が尽きてしまいました。

 次回、具体的な場において政治(参加)という主題がどのように見えてくるのか、検討してみることにしたいと思います。
 

★1 『日本2.0』(ゲンロン、2013年)に収録された、新しい憲法草案を提示する企画のこと。ここで起草された「新日本国憲法ゲンロン草案」は、全文がウェブサイトで公開されている。 URL=http://genron.blogos.com/
★2 宇野重規と東浩紀の対談「日本的リベラリズムの夢」(2015年6月10日)のこと。当日の議論を収めた動画アーカイブはVimeoで公開中。 URL=http://vimeo.com/ondemand/genron20150610/
★3 三宅洋平との対談「安倍政権は止まるのか」(2014年9月24日)のこと。 URL=http://vimeo.com/ondemand/genron20140924/
★4 開沼博との対談「若者が働けない社会」(2014年9月11日)のこと。
 

西田亮介

1983年京都生まれ。日本大学危機管理学部教授/東京工業大学リベラルアーツ研究教育院特任教授。博士(政策・メディア)。慶應義塾大学総合政策学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修士課程修了。同後期博士課程単位取得退学。同政策・メディア研究科助教(研究奨励Ⅱ)、(独)中小企業基盤整備機構経営支援情報センターリサーチャー、立命館大学大学院特別招聘准教授、東京工業大学准教授等を経て、2024年4月日本大学危機管理学部に着任。現在に至る。 専門は社会学。著書に『コロナ危機の社会学』(朝日新聞出版)『ネット選挙——解禁がもたらす日本社会の変容』(東洋経済新報社)、『メディアと自民党』(角川新書)『情報武装する政治』(KADOKAWA)他多数。
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