愛について──符合の現代文化論(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか|さやわか

初出:2019年10月25日刊行『ゲンロンβ42』

 筆者は『ゲンロンβ39』(二〇一九年七月)に「記号的には裸を見せない――弓月光と漫画のジェンダーバイアスについて」と題する文章を寄稿した。簡単に言うと、今日の社会で漫画の記号性をどう捉えるべきかを考察したものだ。

 漫画が記号的な表現だとは、よく言われる。どのような図像(記号表現)が描かれたら、どんな意味(記号内容)を持つかのコード(体系)が存在し、読者はそれに従って記号と意味を符合させ、物語を理解する。

 ただ筆者はこの文章で、もう少し踏み込んだことを書いていた。漫画とは極論すれば「絵」で描かれていながらも「文章」のように、記号の連なりとして読まれる表現形式だ、としたのだ。その例として「ツインテールは幼さのある女性」「壁ドンは恋愛における押しの強さを示す」などの記号性を持った漫画表現を挙げた。「ツインテール」は単なる作中事実の描写でありつつ、読者に「彼女は幼い」と了解させる記号として描かれているわけだ。

 記号的な表現は、漫画のみならず社会のいたるところに存在する。「壁ドン」も昨今、たとえば映画や演劇、時には現実世界でも、同じ意味を示唆するために使われている。私たちは、漫画という現実の模写(模写記号)を繰り返し見て「壁ドン」の意味を刷り込まれ、その行為が実写映像や現実空間で行われた際にも、同じ意味を受け取るようになったのだ。

 ただ、ここで重要なのは「壁ドン」が「恋愛における押しの強さ」と分かちがたく、一意的に結びついているわけではない点だ。『ゲンロンβ39』でも筆者は、もともと記号には唯一無二の意味があるわけではなく、漠然と決められているとした。先ほど述べたように、漫画には図像(記号表現)が持つ意味(記号内容)のコード(体系)がある。しかし、そのコードとは人々の間で慣習的に、あるいは恣意的に、曖昧に決められたものだし、実体もないのだ。場合によっては、その記号が持っていた意味が失われたり、全く別物に変化することすらある。それはごく当たり前の事実だが、日常生活ではあまり意識されていない。

 しかしこれを見過ごすことが、社会では多くの軋轢と不和の一因になっている。要するに、人々は記号を一意的に解釈したがっている。政争がいい例だろう。「A氏が政策Bを支持するなら、彼はC派である」「C派であるなら、思想Dである」など短絡的な断定が連続して行われ、最終的には「A氏といえば思想D」というレッテル貼りにまで達する。その結果、他人の考えを正確に把握したり、円滑な相互理解ができなくとも構わないのだ。それ以上に人々は、社会を単純に見通せるほうがいいと考えている。

 もし、人々が記号を解釈するコードが曖昧かつ変化しうるものだと意識していれば、「A氏といえば思想D」が絶対のものでないと考えられるだろう。また、他人が自分と同じコードを共有していないことも容易に理解できるはずだ。相手の言動が一見攻撃的に思えてもそんな意図はない可能性や、逆に自分の言動が意図したように伝わらない可能性を踏まえて、対話をより慎重に行えるようになるかもしれない。

 しかしそれでも、人々は記号を一意に解釈したがる。なぜだろうか。私たちが一対一の「符合」しかありえないと考えてしまう記号は社会のどこにあり、また、なぜそのような符合を行ってしまうのか。

 

 簡単にまとめよう。要するに筆者は「記号」自体よりも、この「符合」に注目することで、今日の社会が迎えている困難を乗り越えられると考えているのだ。

 符合とは何だろうか。情報理論や暗号学、言語学などには「符号」という用語がある。これはある情報を別の情報へと読み替える規則を指し、codeの訳語でもある。それに対し、筆者が今から語ろうとしているのは「符合」だ。これは「割り符が合うこと」に由来して、『デジタル大辞泉』(小学館)によると「二つ以上の事柄が、ぴったりと照合・対応すること」を意味する。

 つまり筆者が考えたいのは符号、すなわち、記号が意味へ対応するメカニズムについてではない。私たちが記号的な事象に対して意味を対応させてしまう行為、それ自体についてだ。

 その行為が慣習なのか、意図的なのか、他人に合わせた結果なのかはともかく、私たちは何かにつけて、意味を一対一にぴったりと符合させようとする。そして、しばしばその符合に固執してしまう。

 この連載には「愛について」とタイトルを付けた。筆者は、この偏執的なこだわりを、人間のごく当たり前の感情、愛に類するものとして語ろうと思うのだ。今日の社会は多様化し、恋愛や結婚の自由が語られ、文化も人々のほしいままに愛されている。しかしその一方で、上述したような強い執着が、私たちを分断に導いている。ならば私たちはその愛情、記号と意味の一対一の符合に耽溺するのでなく、その符合を読み解き変形するようなリテラシーを作るべきではないか。

 そして、私たちはその符合を成すコードをどのように書き換えればいいのか。人々は記号には注目するが、符合がどれだけ恣意的で、どう書き換えられるかにはいまだ十分に関心を払っていない。筆者はコードを書き換えて符合の多様性を生み出すことが、社会の多様性の拡大に直結していると考えている。この連載ではそうした「符合の多様性」の可能性を示す具体例として、現代文化を例に挙げていくことにする。

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 具体例を挙げよう。筆者が『ゲンロンβ39』で取り上げた漫画以外でも、ポップカルチャーには強い記号性を用いた表現が多く存在する。たとえば「マーベル・シネマティック・ユニバース」(MCU)などの娯楽映画はどうだろうか。ここにも人々が何気なく受け入れる定型的な記号表現があり、しかしそれを慎重に検分すれば、私たちの社会が見過ごしがちな別のコードによる再解釈が行える。

 MCUは、二〇〇八年以降にアメコミの大手マーベル・コミックスが制作している、同社のスーパーヒーローもの漫画を原作とした一連のシリーズだ。二〇一九年現在までに二三本が作られ、今や娯楽映画として世界中で大人気となっている。二〇一九年に公開された二二作目『アベンジャーズ/エンドゲーム』の興行収入は『アバター』(二〇〇九年)を抜き、現在までの世界歴代一位を記録した。

 それぞれの映画は独立した内容で、主人公となるスーパーヒーローも異なる。ただシリーズ全体で世界観と時系列が共有されており、通して見ると大河物語として楽しめるのが特徴だ。『エンドゲーム』では、この大河物語が大きな転機を迎えた。過去に作られたほぼ全作品のスーパーヒーローが集合し、宇宙の生命の半数を消滅させた最強の敵であるサノスを打ち破ったのだ。長く続いた悪との対決は一段落し、それまでシリーズの主人公格だったスーパーヒーローたちも相次いで退場した。

 なかでも、アイアンマンことトニー・スタークが主役級から退いたことは、世代交代を強く感じさせた。そもそも二〇〇八年公開のMCU第一作目が、他ならぬ『アイアンマン』だった。トニー・スタークはそこで初めてスーパーヒーローとして戦い、以降『エンドゲーム』までのMCU全二二作は、彼のアイアンマンとしての去就を描くサブエピソードが充実していたのだ。

 トニーは巨大な軍需企業スターク・インダストリーズの社長で、自ら兵器を開発する天才エンジニアでもある。性格はひねたところがあり、『クリスマス・キャロル』のスクルージよろしく他人を見下し、兵器を売りさばくような人間だった。

 ところがある時トニーはアフガニスタンで若いアメリカ兵が死ぬのを目にし、自身もまた重傷を負う。生命維持装置として動作するアイアンマンのスーツを自作し九死に一生を得るが、武器商人である自分が世界中に不幸を生んでいたと知り、強いショックを受ける。以後、彼は行きがかり上もあって、しかし次第に責任を感じて、アイアンマンとして正義を成そうとするようになる。

 ただ、彼が軍需企業トップの大富豪であるのは変わらない。敵をなぎ倒す力を持ったアイアンマンのスーツにしても、その実態はトニーが生み出した兵器そのものだ。平和を実現するために自らは暴力を行使してもいいとするなら、それは身勝手だ。トニーは以後、MCUに登場するたびその矛盾に苛まれる。

 このテーマは現代的だし、リアルにも思える。ただこうしたスーパーヒーローの苦しみは、実はアメコミでは既に定番で、過去にはスーパーマンやバットマンも抱いた類のものだ。たとえばDCコミックスが一九八六年に刊行した『バットマン:ダークナイト・リターンズ』では、年老いたバットマンが自警団として悪と戦う行為をとがめられ、警察から追われる姿が描かれている。二〇〇九年に公開された映画も高い評価を受けた『ウォッチメン』の原作は、一九八六年から翌年にかけての作品だ。こちらはヒーローの暴力が法律によって禁止された世界を描いている。

 まして911テロ以降ともなると、『スーパーマン:フォー・トゥモロー』(二〇〇四二〇〇五年)のように、こうしたテーマを扱う作品はますます増えた。『アイアンマン』が公開されたのと同じ年に公開されてヒットしたクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』もその流れに位置づけられるものだ。

 もともとアメコミの典型的なスーパーヒーロー像といえば、筋骨たくましく眉目秀麗な白人男性が、沈着冷静に鋼の意志をもって正義を貫くようなものだった。しかし、もちろんそんな完璧な二枚目スーパーヒーローは非現実的だ。そして今や、八方丸く収まる正義もまた、現実的ではない。そこで、その非現実的な理想像を目指しながら、しかしその困難さと空虚さに苦悩する姿が、アメリカのスーパーヒーロー像として定着したのだ。だが、その苦悩は派手なコスチュームとマスクを身につけた記号的なアメコミヒーローが、もはや記号的に抱えるものだ。

 この手垢にまみれたテーマは、アイアンマンに限らず、MCU全体に見出せるものでもある。MCUの特徴は、トニー・スタークをはじめとする登場人物がやけに人間臭く、優等生ばかりではないところにある。その意味では従来のスーパーヒーロー像を打ち破っているが、正義が矛盾をはらむというテーマには、さほどの更新は見られない。

 具体的に説明しよう。MCUでは、シリーズが進むにつれてスーパーヒーローたちが「アベンジャーズ」なるドリームチームを結成し、強大な敵に立ち向かう。しかし前述の『エンドゲーム』までにアベンジャーズはメンバー同士が対立し、早い話が内輪もめによって、空中分解する。

 このアベンジャーズの分断は、勝手気ままに武力を行使すべきではないと考えるアイアンマンと、自らの純粋な正義感で国を守ろうとするキャプテン・アメリカの対立が発端になっている。つまりこれもアメリカ的な、あるいは白人男性的な正義をどう行使するかというテーマを背景にしたストーリーだ。

 いかにもアメリカ的で、世界の警察を自認する国家ならではの作品だと思わせるし、肉体的にも精神的にも「強さ」が価値を持つアメリカの白人男性的なダンディズムを感じさせる。そうやってスーパーヒーローが苦悩している間にも、悪がためらいなく殺戮を繰り広げる様は、911以降の状況を反映しているとも言える。 私たちはそれを見て、スーパーヒーローが、本来なら記号的に「正義」を意味するものだと思うからこそ、人間的に悩む姿に感動する。また、彼らが悩む理由には、現代性を感じて胸打たれる。しかし、実はそのスーパーヒーローの悩みは、アメリカの白人男性に描かれがちな苦悩でしかない。そして一見現代的でリアルなテーマに思えたとしても、実は使い古されたものでしかないわけだ。ここに、冒頭に書いたような一対一の符合しか生まれない記号性の反復があるということになる。

 また、どれだけ悩むにせよ、MCUは娯楽SF映画である。そうした映画の常として、当たり前のことだが最終的には盛大に暴力を行使することになる。『エンドゲーム』では、アベンジャーズが溜まりきった鬱憤を晴らすかのように暴れ回り、敵の首領サノスを完膚なきまでに叩きのめしている。

 もちろん、彼らは無慈悲に殺戮を繰り広げるわけではない。彼らが武器を取る理由は、それなりに妥当なものとして描かれる。

 もともとアイアンマンやホークアイ、マイティ・ソーなどアベンジャーズの一部メンバーには、世界を救う戦いばかりでなく、父親との関係に思い悩んだり、結婚してそれぞれの家庭を大切にする姿が頻繁に見られた。そして、最終的に家族との関係が深まることが、彼らが家族を守るため、強大な敵に立ち向かう動機にもつながっていくのだ。

 スーパーヒーローだけではない。宿敵サノスですら、宇宙を滅ぼそうとしつつ、家族の問題と向き合っていた。MCUは『エンドゲーム』にいたるまでの過程で、だんだんとシリーズ全体で家族というテーマが強い意味を持つようになっていたのである。それがしっかりとプロットを支えた結果、スーパーヒーローたちの暴力が、観客に違和感を与えることは少なくなっている。

 だがそれでも『エンドゲーム』は、MCU全体を通して描いてきた正義の問題を、どこか有耶無耶に終わらせた感がある。なぜなら、この作品のラストを飾る大戦闘は、どこまでも続く果てしない大地、建物もなく通行人もいない広大な平野で行われるためだ。

 前述のアイアンマンとキャプテン・アメリカの軋轢は、アベンジャーズが強大な敵と戦って街を崩壊させ、住人たちに甚大な被害をもたらしたことから生まれたものだった。しかし『エンドゲーム』では、両者の対立を生み、葛藤をもたらした要素が、映画からきれいに抹消されている。

 家族を重視するようになったからといって、シリーズ中盤までに深刻に語られたテーマをさりげなく取り下げる道理はないだろう。たしかに『エンドゲーム』結末でのアベンジャーズの大勝利は娯楽映画として胸のすくものだし、シリーズは感動的なエピローグをもって一時閉幕する。しかしMCUが一作目『アイアンマン』から描き続けた正義と暴力の問題が十分に深められ、「正義を体現するはずのスーパーヒーローが、にもかかわらず苦悩する」という、既に目新しさのない符合の反復が乗り越えられて、新たな落とし所を提示できたかというと、そうとは言えないのだ。

 

 ここまでの話をまとめよう。筆者は現代文化で最新の人気作品として『エンドゲーム』を挙げた。だが、この作品を白人男性ヒーローの物語という観点で眺めると、描かれているテーマは革新的なものには感じられない。自らの正義に悩み苦しむスーパーヒーローは八〇年代にも描かれていたし、アイアンマンが典型的と言っていいにせよ、911以降には頻繁に見られるようになったものだ。

 つまり現代文化の最先端に位置する『エンドゲーム』であっても、古くから続く一対一の符合は代わり映えすることなく収められているのがわかる。この作品に一大スペクタクルはある。しかし、そのテーマに新たな論点を付け加えられたようには見えない。

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 だからといって筆者は『エンドゲーム』が失敗作だったと言うわけではない。そもそも昔からスーパーヒーローものが記号的に反復しているテーマをそのまま受け取ったところで、過去の焼き直し以上の意味を感じられないのは当然なのだ。したがって私たちはMCUが『エンドゲーム』で繰り返した、白人男性ヒーローがいかに正義を執行するかというテーマに目を奪われるべきではない。MCUに描かれている記号性を、現代に相応しい意味に符合させる、新しいコードを見つけ出す必要がある。

 その手がかりとなるのが、白人男性ヒーローでないもの、たとえば女性ヒーローたちだ。筆者はここまでの文章で「スーパーヒーロー」について書いてきたが、それは男性を、とりわけ白人男性を指すのが当然になっていた。「ヒーロー」(hero)は男性名詞なのだから、当然にも思える。だが、そう思うこと自体が、私たちを「スーパーヒーロー」という概念を一対一の符合へと、古びたヒーロー像の反復へと、束縛するのだ。

 ではMCUにおいて、女性ヒーローはどのように描かれてきたのか。ハリウッド映画では「#MeToo」運動の機運もあってジェンダーへの意識が高まっているが、それまではMCUでも女性のスーパーヒーローが十分な扱いをされていたとは言えなかった。二〇一五年までマーベル・スタジオのCEOとしてMCUの企画監修を行っていたアイザック・パールムッターは女性や有色人種を主役に据えることに否定的だったと言われ、二〇一四年に流出した彼の電子メールにも、女性を主人公とした過去のヒーロー映画の低調な興行収入がメモされていた。

 パールムッターの嗜好を裏付けるように、MCUの主役はシリーズ序盤から白人男性ばかりだった。黒人の主人公は二〇一八年公開の一八作目『ブラックパンサー』、女性は二〇一九年公開の二一作目『キャプテン・マーベル』まで実現しなかったのだ。

 『キャプテン・マーベル』の次作にあたる『エンドゲーム』も、女性キャラクターがよく活躍するように作られている。最終決戦では、キャプテン・マーベルが圧倒的なパワーを発揮し、一人で敵の船団くらいは壊滅させられるほどの大立ち回りを見せる。彼女だけではない。過去に登場した女性ヒーローたちが混戦の中で一箇所に集まり、勇壮に敵をなぎ倒していく場面が『エンドゲーム』の見どころのひとつとなっているのだ。こうしたシーンにも、女性ヒーローを活躍させたい制作者側の強い意志が感じられる。

 ただ、これらの手法はあけすけで、いかにも取って付けたようなところがあるのもたしかだ。そもそも『キャプテン・マーベル』の主人公であるキャプテン・マーベルことキャロル・ダンヴァースは沈着冷静なエリートといった風情で、つっけんどんにすら見える。映画の予告編が公開された際には、彼女がほとんど仏頂面のように見えることに、ファンからSNSで不満の声すら上がった。

 主演のブリー・ラーソンはこの炎上騒ぎに際して、『アイアンマン』や『キャプテン・アメリカ』の映画ポスターをレタッチソフトで笑顔に加工した画像をインスタグラムにアップロードして対抗した。つまり、過去のスーパーヒーロー映画だって、予告編やポスターで男性主人公が笑顔を見せているわけではないのに、なぜ自分が笑わないことだけが取り沙汰されるのか、というわけだ。この切り返しのうまさによって彼女の株は上がり、また人々はキャプテン・マーベルが笑わないことにも、あまりとやかく言わなくなった。

 ただ予告編だけでなく映画本編においても、やはりキャプテン・マーベルは、優秀だが人間味溢れるとまでは言えない人物として描かれている。従来のMCUの主人公が愚かしいほどの人間臭さを売りにしていたのに比べると、あまり奥行きのある人物造形に見えないのはたしかだ。

 キャプテン・マーベルが沈着冷静すぎるのは、彼女一人の問題ではないように思われる。なぜなら彼女は「名誉ある女性」として、かつて白人男性たちが与えられた非人間的なほど超人的なヒーロー像を、なぞらされているように見えるからだ。炎上騒ぎの際、ラーソンは過去の男性主人公と比較して、自分だって笑わなくてもいいではないかと主張した。だがそれは彼女が笑わなくてもいい理由ではなく、今なおスーパーヒーロー映画が古典的な二枚目ヒーロー像にとらわれていることを示すものとして受け取るべきだ。つまりキャプテン・マーベルの冷静さや強靱さとは、かつて白人男性ヒーローが求められた、古典的な男性の強さを追認しているだけなのである。

 おそらく今後、MCUのシリーズが続く中でキャプテン・マーベルの苦悩や葛藤も描かれるはずだ。しかし現状では、その行く先は白人男性と同じ道を、今度は女性として歩くだけになるだろう。キャプテン・マーベルを単に「女性」という記号そのものとして扱い、それを男性の地位に据え置けばいいと考えて作るなら、そうなるはずだ。そうした作品に意味がないわけではないが、より進歩的な映画にするなら、制作陣はキャプテン・マーベルに男性をなぞらせるのではなく、彼女自身の人間性に向き合い、掘り下げねばならない。

 とはいえキャプテン・マーベルは、かつての白人男性のような、沈着冷静で驚異的なパワーを持つスーパーヒーローというポジションを与えられてしまった。「笑わない」逸話からもわかるように、結局のところ彼女の物語はスーパーヒーローに与えられる記号的な意味を、男性ヒーローたちからそのまま引き継いでスタートしてしまったのだ。そのポジションからだと、やはり彼らのたどった道をある程度やり直すしかないようにも思える。本稿の冒頭で書いたようなコードの現代的な書き換えや符合の多様性を急に目指すのは難しいキャラクターと言えるだろう。

 つまりこういうことだ。キャプテン・マーベルは女性であるからこそ、「スーパーヒーロー」という記号が過去に繰り返してきた符合から逃れる可能性を持っていた。正義と暴力に悩む男性ヒーローたちの問題を乗り越え、MCUが描いてきたテーマに決着を付けられたかもしれないのだ。しかし現状、彼女は苦悩する男性たち以上に典型的なスーパーヒーロー像を演じるだけのキャラクターにされている。『エンドゲーム』はキャプテン・マーベルを派手に活躍させたが、正義と暴力というテーマを更新するどころか、アイアンマンよりもさらに前時代的な符合しか与えなかったのだ。

 私たちは「スーパーヒーロー」という記号的な存在に、強靱な肉体、精悍な顔つき、そして人間的な苦悩という、白人男性ヒーローの持つイメージを自然に重ねてしまう。女性であるキャプテン・マーベルも、ただ据え置かれただけではその枷から逃れることができなかった。彼女が「スーパーヒーロー」であるというだけで行われる、その盲目的な符合こそ、筆者がここで愛の一種として指摘したいものだ 。

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 キャプテン・マーベルは、将来的なMCUの展開で新たなスーパーヒーロー像を示すかもしれない。しかし私たちは、彼女の今後にばかりこだわる必要はない。なぜなら、実はこれまでのMCUを通して「スーパーヒーロー」という記号を別の符合に置き換え、記号の一意的な解釈に立ち向かった女性スーパーヒーローが既に存在するからだ。それは、ブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフだ。

 ナターシャは、MCUでは三作目の『アイアンマン2』(二〇一〇年)から登場している古株のキャラクターだ。初登場時の彼女はアベンジャーズの上位組織であるS.H.I.E.L.D.のエージェント、つまり美人女スパイといった役どころだった。

 今あえて「美人女スパイ」と下世話な書き方をしたが、それは初期の彼女が、まさに美人女スパイが記号的に持つ意味を体現したようなキャラクターだったからだ。彼女はアイアンマンをアベンジャーズに勧誘するためトニー・スタークに秘書として近づき、ロシア語からラテン語までこなす堪能な語学、あらゆるコンピュータを攻略するハッキング能力、華奢な身体から繰り出される格闘術、そして男を誘惑する美貌を活かして、スパイ活動を最大限にこなす。その後のシリーズでもナターシャは、恋人同士を装うためにキャプテン・アメリカとキスシーンを演じるなど、娯楽映画の視聴者に、とりわけ男性視聴者に好まれそうな活躍を見せる。幼少期にロシアの暗殺者養成施設「レッドルーム」で訓練を受けて育ったという出自も含め、いかにも魅惑的な美人女スパイといった人物なのだ。

 しかし古株としてアベンジャーズに関わる中で、ブラック・ウィドウは次第に変化していく。彼女は、右記したようにさまざまな男性キャラクターにとって魅惑的に見えるよう描かれるが、MCUの一一作品目『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』(二〇一五年)でも、アベンジャーズのメンバーであるハルクことブルース・バナーと、ロマンスを演じている。しかしナターシャはここで、美人女スパイの記号性を越えたキャラクター性を見せるのだ。

 以下に実際の台詞を紹介しよう(いずれも訳は引用者による)。怪物ハルクに変身すると理性を失って力を制御できないブルースは、このシーンで自信を喪失し、スーパーヒーローを辞めてしまいたいと語る。そこでナターシャは、かねてから関係の深まっていたブルースに対し、それなら自分もブルースに着いていくと言う。だがそんなナターシャを、ブルースは拒絶する。

 

「本気か? そうしたところで……僕には未来なんてない。僕は……僕はこんなふうに子供も作れない。考えればわかる。身体的に無理だ」

 

 しかし、それに対してナターシャは、躊躇しながら次のように答える。

 

「私も無理よ。レッドルームで、訓練を受けて、育てられて、それで……卒業の儀式があったの。避妊手術よ。効率的なの。心配がひとつ減るの。任務以上に大事かもしれないことが。すべてが楽になるのよ。人を殺すことも。……まだ、仲間の中で自分だけが怪物だと思う?」

 

 映画公開後、このシーンには一部の観客から批判も寄せられたらしい。子供が持てない女性を怪物扱いするのか、と言うのだ。しかし避妊手術を受けて暗殺者として育てられた子供が常軌を逸しているのは間違いないし、またそうした者は、ちょうどブルースが自らを嘆くのと同じく、一般的な社会に属することができないという意味で、怪物と言わせたのだろう。

 つまりブラック・ウィドウとは女性でありながら、女性であることを強制的に奪われ、社会からはじき出された人物だ。にもかかわらず彼女は、時には任務で「女の武器」を使うことを期待されもする。奪われた女性性を記号的にのみ、つまり「美人女スパイ」という存在がわかりやすく符合する形でのみ、発揮するよう仕向けられるのだ。それは、MCUという映画シリーズでの役回りでも同じだ。彼女自身がとっかえひっかえ男性を誘惑したがっているわけではなく、脚本に応じて男性の相手役をこなすことを求められ、時にはブルースのように暴力を行使することへ悩む男を導く役割すら受け持たされる。

 しかしだからといって、ナターシャがブルースを鼓舞するのは、彼がスーパーヒーローとしての正義を貫くため、暴力を肯定して立ち上がるべきだと思うからではない。彼女は、MCUがずっと描いてきた、そうしたスーパーヒーローものの記号性、白人男性的なテーマ性など共有していないのだ。

 では彼女がブルースに語るのは、まさしく、素朴に彼への愛ゆえなのだろうか。それもあるかもしれない。ただ、それ以上に彼女が重視しているのは、アベンジャーズを崩壊させないことなのだ。

 どういうことか。そもそもブラック・ウィドウは、MCUのシリーズが進むにつれて、アベンジャーズのメンバーをつなぎとめることを目指す人物になっていった。アイアンマンとキャプテン・アメリカの不和が決定的になった作品はこの『エイジ・オブ・ウルトロン』だが、その後ブラック・ウィドウは『エンドゲーム』まで、折に付けアベンジャーズが再び団結できるようにと奔走する。『エンドゲーム』ではついにサノスが宇宙の生命の半数を消滅させ、アベンジャーズが完全に壊滅して五年が過ぎてもなお、彼女はキャプテン・アメリカに以下のように話すのだ。

 

「私はかつて何も持っていなかった。だけどこれを手に入れたの。この仕事……この家族を。それで私は……そのおかげで、よりよくなれた。だから……みんながこの世からいなくなったって……私はよくあり続けたい」

 

 前述のように、アベンジャーズのメンバーはシリーズが進むにつれて結婚したり、対話を重ねて親と和解したりと、それぞれに家族の問題を追及していった。そして、そのテーマが頂点に達するのが『エンドゲーム』だ。ここでブラック・ウィドウも「家族」と口にしている。しかしその意味が他のメンバーと異なるのは明らかだ。他の登場人物の周囲にあるのは結婚、血縁関係、養子などによる家族関係で、言ってみれば伝統的な家族観の範疇にあるものだ。しかしナターシャはそれと同じ意味では、家族を持つことはできない。結局ブルースとも恋人関係にならなかった彼女は、最終的に自分にとってアベンジャーズこそが家族だと言うに至っているのだ。

 このシーンのナターシャは散り散りになったメンバーを思い、誰もいない部屋で長い髪を乱れさせて泣いている。もともとブラック・ウィドウは、このように涙する人物ではない。シリーズ初期には、それこそキャプテン・マーベルのように、優秀で沈着冷静だが奥行きのないキャラクターだった。ブルース・バナーに語りかけた時ですら、自身の暗い過去を語りながら、まだどこか蠱惑的な雰囲気を残していた。

 しかし『エンドゲーム』まで来ると、彼女はほとんど別人のようだ。このシーンで彼女は、手に入れたという家族を失ってしまっている。しかしその姿は美人女スパイというわかりやすい記号性から完全に逃れた、一人の女性としての深みを持った人間像になっている。

 『エンドゲーム』では、ブラック・ウィドウはやがてサノスを倒すために必要な石を求めて、旧知の仲であるホークアイとある惑星に訪れる。そこで二人は切り立った崖の下に石があるのを発見するが、現れたガイド役から、石を手に入れられるのは一人だけで、そのためには「愛するものを失わねばならない」と言われる。つまり、どちらか片方が崖から飛び降りろと言うのだ。

 それで二人は、すぐに自分こそが犠牲になるべきだと考える。ホークアイは、ブラック・ウィドウがアベンジャーズ再建に苦心している間、やさぐれて行方をくらましたこともあり、自分を犠牲にする理由があった。つまり反省による贖罪だ。脚本家のスティーブン・マクフィーリーがインタビューで話したところによると、制作過程では、ホークアイが崖から飛び降りるシナリオも書かれたことがあったようだ。

 

でもスタッフの中の何人かの女性が言ったんだ。「あの彼女の決断を台無しにしないでください。ヒーロー的な行いはナターシャがやるべきで、ホークアイじゃないです」。それを僕らは聞き入れたんだよ。うん。
https://www.fandango.com/movie-news/exclusive-interview-the-avengers-endgame-writers-break-down-the-biggest-moments-in-the-movie-spoilers-753736より訳出)

 

 一部の観客はブラック・ウィドウの行動について、女性が自己犠牲的に振る舞うことで男性たちに戦う動機を与えるものであり、それもまた男性主義的なスーパーヒーローものの定型表現ではないかと批判した。しかしその解釈こそが、スーパーヒーローものが男性のものだという考え方にとらわれていると言わざるを得ない。「美人女スパイ」「女性」「スーパーヒーロー」などに別の符合をもたらす、従来と異なるコードとはここにある。私たちはそれを見抜くべきなのだ。

 彼女の決断はヒーロー的な行い(heroic thing)だったのだ。アイアンマンがMCUの一作目からヒーローの正義と暴力について悩み続けたのと同じく、実はブラック・ウィドウもまた、三作目の初登場からじっくりと時間をかけてヒーローとしての正義に向かい続けていた。過去には男性たちを動かす仕事をさせられたこともあった。しかし『エンドゲーム』での彼女は、たしかにヒーローとして行動したのだ。

 既に見たように『エンドゲーム』の男性スーパーヒーローたちは、あくまでも従来的な記号の解釈の中で行動していた。だからこそ、ここからその符合が劇的に更新されることはない。MCUは二〇〇八年以降スーパーヒーローもの映画を変え、エンタテインメント映画も変えたシリーズではあるが、一区切りとなる『エンドゲーム』は、その集大成ではあっても、次の時代を示唆することはなかった。つまり「スーパーヒーロー」という記号の持つ一対一の対応、従来からある男性的な符合の打破へ向かう姿勢は全く見せなかったのだ。それは、キャプテン・マーベルを大暴れさせつつ、彼女に正義と暴力というテーマを負わせなかったことからも明らかだ。

 だがそれも、MCUを男性側のテーマで見た場合の話だ。ブラック・ウィドウは「美人女スパイ」という、自らに課せられた符合を何作もかけてほぐし、変形させていった。そうやってキャラ(キャラクター性)を徐々に置き換えた結果、最後に彼女は「スーパーヒーロー」という記号の更新、そう呼ばれる者の新たな符合にまで到達したのだ。

 加えて、ブラック・ウィドウの『エンドゲーム』での決断が「愛する者を失わねばならない」という言葉とともにあるのは、筆者にとって意味深く感じられる。

 それはなぜか。彼女が崖へ身を投げるのは、ホークアイが自分を「愛する者」と考えていると確信したがゆえのことだ。しかし、もちろん彼女は、彼が恋愛感情を抱いていると考えたわけではない。ブラック・ウィドウはアベンジャーズを家族だと話していた。彼女は非血縁的な共同体に「家族愛」があると、ホークアイが自分にそれを感じてくれるということを、信じたのだ。

 この時、ホークアイも「俺の家族に、愛していると伝えてくれ」と言付けて、崖から飛び降りようとした。しかし彼は結果的に踏みとどまる。それはまさに、彼がほかに「愛する者」、血縁的な家族関係を得ていたからに他ならない。

 ホークアイだけではない。前述したように、男性キャラクターたちは伝統的な家族を持ち、ゆえにその価値観の中で生きている。そんな中で、唯一ブラック・ウィドウだけが、アベンジャーズという非血縁的なコミュニティを「家族」だとして、その維持を考え、そしてそれを「愛」だと捉えた。つまり彼女は、「スーパーヒーロー」という記号が符合する意味を改めると同時に、愛という概念を、古典的な符合、すなわち恋愛感情や血縁的な家族愛ではない、非血縁的な家族愛という符合へ導いたのだ。

 

 ブラック・ウィドウの行動が、意味深く感じられるのはここだ。筆者の言う「愛」によって定着し、古びたままになっている符合のコードを書き換え、新たな符合へと導く。そして、それによって「愛」という概念自体の符合を刷新し、新しい時代に対応させる。ブラック・ウィドウのやった、それこそが、この連載で筆者のやろうとしていること、そのものなのだ。

 彼女がそこへ行き着いたのは、子供を作れない身体だったからこそかもしれない。しかし、だからこそ彼女には、新しい時代を予期させるものがある。というのも、昨今さまざまに語られている性の多様化の次に来るのは、間違いなく非血縁的な家族、あるいは家族の多様性についての議論になるからだ。

 『エンドゲーム』は正義と暴力の問題を更新しなかった。家族についても、男性キャラクターに注目する限りでは、ほとんど進歩的な考え方が見られなかった。しかし、この映画が更新したものはここにあるのだ。いまだ時代の中心ではないため、ブラック・ウィドウの物語は、ここまでのMCU全体からすると傍流のものだ。だが彼女が示唆した論点は二〇二〇年以降ますます重要になるし、だからこそMCUの今後の作品で中心的に扱われるのは、まず間違いない 。この連載では引き続き、そうした例について語っていきたい。

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1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』(青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』全5巻(LINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。近著に『世界を物語として生きるために』(青土社)。LINEマンガで『永守くんが一途すぎて困る。』(原作。作画・ふみふみこ)を連載中。

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