情念の白い墓標(3) 日本のバルザック(2)|入江哲朗

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初出:2012年6月20日刊行『ゲンロンエトセトラ #3』
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5.


 1799年から1850年まで51年の決して長くはない生涯のなかでバルザックは、プレイヤード版全集にして15巻に及ぶ膨大な量の文章を著し、そのうち90編が『人間喜劇』という総題のもとにまとめられた。1845年の時点で彼は137編を『人間喜劇』に含める構想を抱いており、残された90編に登場している人物も2000人を下らないと言われる。「フランス社会そのものが歴史家になってくれるであろうから、私はただその秘書でありさえすればよい」と序文で謙虚に述べてみせるバルザックには、しかし当然ながら、これらあまたの作品群を統べることに絶対の自信があった。そのための武器として彼が手にしていたのが、「人物再登場の手法」(la technique des personnages reparaissants)と呼ばれる、作品横断的にキャラクターを登場させる仕掛けである。この発明がバルザックにとっていかに画期的であったかは、妹・ロールの手になる伝記の記述がよく伝えるだろう。「ひとつの完全な社会をかたちづくるために、登場人物たちを余すことなく互いに結合する──1833年に『田舎医者』を出版するころにはすでに、彼はこうした考えを抱いていました。このアイデアがひらめいたその日というのは、彼にとってすばらしい日でした。彼はカッシニ街から飛び出して(…)、当時私が住んでいた郊外のポワソニエールに駆けつけるなり、『喜んでくれ! 俺はいま天才になろうとしているぞ!』と嬉しそうに言ったのです」(Balzac, sa vie et ses oeuvres)。

 そしてこの手法が最初に意識的かつ全面的に用いられたのは、1834年の『ゴリオ爺さん』においてであった。たとえば、パリでの出世を夢見る青年として描かれる主人公・ラスティニャックはすでに1831年の『あら皮』に登場しており(ただしそこでは社交界のダンディーとして)、もう一人の主要人物である大悪党のヴォートランは、その後『幻滅』や『浮かれ女盛衰記』など多数の作品に再登場し八面六臂の活躍を果たすことになった。さすがに2000人以上の登場人物を「余すことなく互いに結合する」わけにはいかなかったが、ある試算によれば、『人間喜劇』のなかで複数の作品に顔を出しているキャラクターの数は574人にのぼるという。バルザックの作品群はこうして、広大なネットワークを編み上げながら、ひとつの現実を形成するに至ったのである。


 バルザックがこのときわれわれに要請してゐるのは、われわれがわれわれの現実的な人間認識の仕組みそのものによって彼の作品の世界に対することである。現実の生活においてわれわれは、相手の性格の全体を眼前に始終見てゐるわけではない。相手の言動動作の一々の知覚が、過去の彼に関する記憶を不断に呼び起し、不断に修正するといふ繊細で隠微な作用を重ねて、われわれは、われわれの人間認識を深めて行く。そのやうにバルザックの人物は、人間喜劇を離れたのち、本当に、生き出すのだといふことができる。

 この事情を、周知の通り、バルザックが同一人物を別々の多くの作品にそれぞれ重要な役割を負はせて登場させたといふ事実が手伝ってゐる。医者、訴訟代理人、公証人、判検事、僧侶、すれっからしの才人たち、浮れ女、あばずれものの貴婦人たち、ジャーナリスト、金融業者、貧乏音楽教師、いたづらものの画家──中でもバルザックが好んで登場させたのは、黒衣をまとった三種の人物、医者と僧侶と訴訟代理人だった。

(寺田透「バルザック断章」、なお注記のないかぎり引用文中の強調はすべて原文に基づく)


 医者と僧侶と訴訟代理人。ところで『白い巨塔』とは、医者と訴訟代理人(弁護士)の物語であった。「彼らは病ひと罪と欲といふ人生の三つの悪の検証者である。従ってその職業上、リアリストたらざるを得ぬ連中であり、バルザックは、かれ自身の描写様式でなしに、この連中を、そのリアリズムの荷ひ手としたのであった。つまりかれにあっては、現実の仕組みそのものの裡にリアリズムは成立したのである」。これは上の引用に続く部分であるが、この言葉はほとんどそのまま山崎豊子に当てはまるのではないか。冷酷な銀行家と熱血の鉄鋼マンの親子(『華麗なる一族』)、壮絶な過去を背負う辣腕の商社マン(『不毛地帯』)、腐敗の連鎖を断ち切ろうと苦闘しそして敗れる国民航空社員(『沈まぬ太陽』)、機密隠蔽を目論む国家権力にあくまでも抗する新聞記者(『運命の人』)、どのキャラクターももしバルザックが戦後の日本を生きていれば『人間喜劇』のラインナップに加えたに違いない──そんな想像は、はたして荒唐無稽なものだろうか。

 もちろんそこに影響関係は存在している。そもそも山崎豊子はバルザックを愛読していたのであり、「バルザックの作品をみると、憎らしいくらい鮮やかに実業家の人間像が描かれています」という率直な表明も見受けられる(『財界』1973年6月1日号)。彼女が自ら意識して「日本のバルザック」たろうとした側面は否定できまい。だがたとえば、橋本治が1983年に書いた山崎豊子評をこの寺田透のバルザック論に重ね合わせて読むとき、そこにウロボロスのようなある循環を見てとることはできないだろうか。


 はっきり言って、人間というものはことごとく類型的なものなんだから、人間を類型でとらえられない人間というのは、ダメなのよ。山崎豊子はスゴイもんねエ。悪人は悪人。もう決まってんの。そんで、そういう決まりきってる悪人を、どれくらい現実のなかからほじくり出せるかで、山崎豊子の勝負は決まる。
[中略]
 山崎豊子が通俗だというのは現実を知らない人間の発言で、そういう人間ほど山崎豊子の "盗作" をうんぬんする。勘違いしてはいけない。 "すべての人間は類型的である" と言っている人間がどうして "すべての文章はデータでしかない" と言わないと思うのか? 徹底した19世紀人間山崎豊子が、実はすべてが同一であるという相対的人間であるというところが、実に彼女が現代ということなのだ。

(「インテリの裏本──山崎豊子」)




 バルザックの人物描写がたとえ類型的であったとしても、彼は読者の視線を作品の外側に広がるもうひとつの現実へと引き込むことによって、各キャラクターの奥深い内面を読者がそこに仮構するよう仕向けることができた。それが「現実の仕組みそのものの裡にリアリズムは成立した」ということの意味である。しかしもし、現実という言葉がもはやいかなる〈奥深さ〉も担保しえなくなったとすればどうか。類型的な現実のなかでなおバルザック的であろうとする山崎豊子においては、人間喜劇の現実と私たちの現実とが一致してしまっている。『白い巨塔』以後の山崎豊子が用いるようになった「人物再登場の手法」をバルザックのそれと比較してみれば、そのことを顕著に見出せよう。
 たとえば、『華麗なる一族』の「前大蔵大臣、現幹事長の田淵円三」は『不毛地帯』に「自由党の田淵幹事長」として再登場する。『華麗なる一族』の「佐橋総理」は『運命の人』の冒頭でも総理であるのに対し、『沈まぬ太陽』における総理の「利根川」は『運命の人』だと「田淵と福出の決選投票ではちゃっかりキャスティングボードを握って、田淵勝利に貢献した "青年将校" 」と描写されている。ここで言う「田淵」とは幹事長から総理へと登りつめた「田淵角造」を指すが、『華麗なる一族』の「田淵円三」と名前は違ってもきっと同一人物なのだろう。なにしろそこでは、田中角栄、佐藤栄作、中曾根康弘といった現実の政治家があからさまなモデルとして読者に共有されているのだから。言うなればそれは、現実を素材とした二次創作にほかならない。仮に誤って「田中角栄」という名前が作中に紛れ込んでしまったとしても、作品としてはなんら変化を被ることがない。田淵円三も田淵角造も田中角栄も、山崎豊子が生み出す人間喜劇の巨大なデータベースのなかで持つ位置価は等しいのである。「彼女は、ほとんど相対性の海に漂っている」と橋本治が驚いたのは、いまや社会派作家としての人気を不動のものとしている山崎豊子が、そんな身も蓋もない態度を徹底して貫いているからこそであった。

 すでに見たように(前節参照)、そのことの契機は『白い巨塔』にあった。じじつ彼女自身が、松本清張との対談のなかで自分の作風の変化を次のように振り返っている。


 医学の世界を描いた『白い巨塔』で、素材が文体を変えるということを初めて知ったわけです。つまりね、手術の場面なんかね「メス! コッフェル! クーパー!」ならいいんですよ。「メスが鋭く光った」「赤い血が流れた」とか「淡黄色の臓器が現われた」なんて書くとおかしいんですよ。「メス! コッフェル! クーパー!」「食道、噴門部、リンせつしゅりゅう」というふうに、器具の名前、臓器の名前をぶつっ、ぶつっと並べるだけの方がリアリティがある。素材が大きくなると、形容詞なんかは拒否しちゃいますね。

(「小説ほど面白いものはない」、『小説新潮』1984年3月号)




 これがつまり、「かれ自身の描写様式でなしに、この連中を、そのリアリズムの荷ひ手とした」ということが山崎豊子において意味するものなのだ(そしていまや、「この連中」のなかには「O記者」さえ含みうるかもしれない)。彼女の素材は以後ますます広がって、ついには現実とぴったり同じ大きさとなった。そのあかつきには、「形容詞なんかは拒否し」つくされた文章がすべてデータの名のもとで一元化されるに違いない。だから『白い巨塔』こそ山崎豊子の人間喜劇的な巨大平面が始まった場所であり、作品世界と現実とをひとしなみに吞みこむ「相対性の海」の起源である──そのように言いたくもなるだろう。

 だがしかし、だとすればなぜ田宮二郎の悲劇は起こったのか。それはあたかも平地の上で断崖から飛び降りるような所行ではないか(『リア王』第4幕第6場)。あるいは、カール・シュミットが『ハムレット』に見出した「二つの大きな開口部」と同じものが、山崎豊子の喜劇を一気に悲劇へと転じてしまったのだろうか。そのとき『続白い巨塔』は、山崎豊子が社会に書かされたこの唯一の作品は、はたしてどんな意味を持つことになるのか。

 どこまでも茫洋と広がる相対性の海のなかで、ただ白い巨塔だけが、いまなお不気味に聳えている。

6.


「人生というのは分かりません。大映に入社して第一回の出演作品は『薔薇の木にバラの花咲く』でした。だけど、あまり売れませんでした。でも昭和三十六年に『女の勲章』の銀四郎役で、やっと田宮二郎という名前が世の中に出ました。僕にとっては最後のチャンスでした」。これは、1978年5月にニッポン放送の『マイライフ・マイストーリー』で田宮が語った言葉である(彼の死後、その内容は『週刊サンケイ』1979年2月15日号に掲載された)。田宮二郎という俳優の道を最初に切り拓くことになったこの『女の勲章』という作品は、山崎豊子が毎日新聞で1960年から翌年にかけて連載していたものであった。のち1965年に新潮社から出版された文庫版に解説を寄せているのは、江藤淳である。


 私は、率直にいって、関西の洋裁デザイナーの世界の内幕を描いたこの小説に、どんな人間についての発見があるとも思わない。大庭式子は船場の名家に生れた美貌の洋裁学院長である。そのマネージャーである八代銀四郎は、縁無しの眼鏡をかけて「きれいな大阪弁をつかう」冷酷辣腕の美青年である。この組み合わせに、野心家ぞろいの三人の女弟子がからみ、式子の夢はついに破れ、一切の人間関係を金に換算するという哲学の化身である銀四郎が勝つ。これは約束事の世界である。何故なら、この小説に描かれた一切の事件は、式子と白石教授との恋愛をも含めて、金と金の論理を掌中にした人間が必ず現実を支配するという決定論の枠組みのなかにはめこまれているからである。


 上の引用を見るだけでも江藤がいかに正確に山崎豊子の本質を捉えているかが理解されるが、実はこれに続く箇所においても、きわめて重要な論点がいくつも提出されている。その内容についてはいずれ立ち返って検討されるだろう。ひとまずここで理解すべきは、「決定論の枠組み」のなかで生きるこの「一切の人間関係を金に換算するという哲学の化身」こそが、田宮二郎のキャリアの出発点であったという事実である。

 以後、田宮にとって山崎豊子はつねに特別な存在でありつづけた。『白い巨塔』は『サンデー毎日』で連載されていたころから熱心に読み、映画化の話が決まる前に田宮自身が財前五郎の役に狙いを定めていた。「この作品をやります時には、山崎豊子さんと五時間くらいかかって、この財前五郎を自分がやりたいからと、自分で話し、そして一か月くらいかかってこの原作を頂戴しました」と、『マイライフ・マイストーリー』でも思い出が語られている。1966年前後のことであろう。

『白い巨塔』の映画製作を報じる当時の新聞が、田宮の並々ならぬ意気込みをより詳細に伝えている。「週刊誌に連載が始まった三年前からこの役をねらっていたという田宮は、この間にガンの手術で有名な東京女子医大の中山恒明教授の手術を、ツテをたどって四回も見学した。脳シュヨウ手術も見学したが、田宮がついに卒倒しなかったことに看護婦さんは不満げな表情だったという。その必要もなかったのに人間ドックにはいったし、さる一月に婦人が帝王切開を受けたときも、じっと手術を見ていたという非情さ。山崎さんは『ねちっこい人ねえ』とあきれたそうだ」。しかしどれだけ勉強したところで、原作の財前は43歳であるのに対し当時の田宮はまだ31歳。「だいじょうぶなの?」と山崎豊子から寄せられる不安を拭おうとするかのごとく、田宮はそこで自分の演技プランを熱弁している。「渋み、貫禄、知性、手段を選ばぬすごみ、そして清潔な "いやらしさ" ──そうしたものすべてを出さなければならない反面、出たらこわいと思うのは、ぼくがアクションもので自然に身につけてきたからだの動きの軽快さ。シナリオに "内からあふれる喜び" と書いてあっても、おさえぎみにやっています。素の財前五郎が見られるのはくにのおふくろに手紙を書くシーンだけで、あとはぜんぶ意識している財前五郎──つまりハムレット役者にいわれるような二重の演技が要求されるわけですね」(読売新聞1966年9月24日夕刊)。
 全国紙のインタビューとはいえ、単なる新作映画のプロモーションであるというのにわざわざハムレットまで持ち出して語る田宮のこの気迫はどうだろう。ところでそもそも、「ハムレット役者にいわれるような二重の演技」とは、いったいなにか。


 ハムレットの最大の魅力は、彼が自分の人生を激しく演戲してゐるといふことにある。旣にハムレットといふ一個の人物が存在してゐて、それが自己の內心を語るのではない。まづ最初にハムレットは無である。彼の自己は、自己の內心は、全く無である。ハムレットは自己のために、あるいは自己實現のために、語つたり動いたりはしない。自己に忠實といふ槪念はハムレットにもシェイクスピアにもない。あるのはただ語り動きたいといふ慾望、すなはち演戲したいといふ慾望だけだ。この無目的、無償の慾望はつねに目的を求めてゐる。その目的は復讐である。決して自己實現などといふ空疎な自慰ではない。慾望の火はそんなものには燃えつかないのだ。
[中略]
 ハムレットを演じる役者には、ほんの一寸した心がけが必要である。シェイクスピア劇においては、自分の役の內面心理の動きや性格をせりふから逆に推理し歸納して、その表現を目ざすといふ寫實主義的敎義は有害無益である。ハムレットの演技法はハムレットに敎はることだ。シェイクスピア劇の演技法はシェイクスピアに敎はることだ。そのハムレットは演戲し、演戲しながらそれを樂しんでゐる。さういふハムレットを役者は演戲すればいい。演戲といふことが旣に二重の生であるがゆゑに、そこには二重の演戲がある。

(福田恆存「『ハムレット』解題」)




 なるほど、「くにのおふくろに手紙を書くシーン」でのみ財前五郎は素の自分(黒川きぬの子としての黒川五郎)を垣間見せるのだとすれば、「金が金と見えんような品位のある演技」を駆使して白い巨塔の階段を登ろうとする財前五郎というキャラクターを彼が演じるようになったのは、財前又一という義父を得てからのことであった。つまり田宮が自らに課した「二重の演技」とは、〈財前五郎を演じる黒川五郎を演じる田宮二郎〉という入れ子構造を表現するために要請されているのだろう。その前のめりな決意表明は、1966年の時点においてはまだ、田宮がどれほど『白い巨塔』という作品に打ち込んでいたかを語るエピソードにすぎない。

 しかし、私たちはすでに知るように、このハムレット的な演技の連鎖にひとたび囚われた田宮は、結局死に至るまでそこから抜け出すことはなかった。

 田宮が日常生活においてもしばしば演技的に振る舞っていたことについて、次のものを含め、彼の死後に友人が語った証言はいくつか存在している。「田宮は、役者意識が抜けないというか、ぼくらと姿勢を崩して話していても、人が来ると一々きちっと姿勢をただして話す。とにかく、周囲に細かい気を配り、疲れるだろうにと感じたこともあった」(『週刊読売』1979年1月21日号)。柴田吾郎はつねに田宮二郎を演技していた。演技の入れ子構造はいまや、柴田吾郎→田宮二郎→黒川五郎→財前五郎、と目の眩むような長さにまで肥大してしまっている。「五郎と吾郎、山崎先生には失礼だけど、どこかで僕のことをお聞きになっていて、おつけになったって勝手に思ったりするんですよ」という1976年冬の田宮の言葉は、この連鎖を円環へと閉じようとするものではないのか。「彼の自己は、自己の內心は、全く無である」という疑念が、田宮の劇化をますます加速したのではないか。

「こうして身のまわりに十重とえはたえ、悪だくみの網を張りめぐらされて──気もちのうえでは、まだ幕開きの用意も出来ていないのに、もう目のまえに芝居がはじまってしまったというわけだ」(『ハムレット』第5幕第2場)。もちろんハムレットがその窮地に追い込まれたのは、結局のところ彼自身がそう望んだからであった。ならば田宮二郎の場合はどうだったか。少なくとも、1978年の財前五郎は、もはやそれを望んではいなかった。
 

参考文献
Balzac, La Comédie humaine, tome 1, Gallimard, 1976.
Mme Laure Surville, Balzac, sa vie et ses oeuvres: d’après sa correspondance, Librairie nouvelle, 1858.
栗原裕一郎『〈盗作〉の文学史──市場・メディア・著作権』、新曜社、2008年。
E. R. クルティウス『バルザック論』小竹澄栄訳(大矢タカヤス監修)、みすず書房、1990年。
カール・シュミット『ハムレットもしくはヘカベ』初見基訳、みすずライブラリー、1998年。
『寺田透・評論 第Ⅱ期Ⅲ』、思潮社、1979年。
橋本治『とうに涅槃をすぎて』、徳間文庫、1984年。
『バルザック「人間喜劇」セレクション』別巻2、大矢タカヤス編、藤原書店、1999年。
『福田恆存評論集』第19 巻、麗澤大学出版会、2010年。
升本喜年『田宮二郎、壮絶!──いざ帰りなん、映画黄金の刻へ』、清流出版、2007年。
山崎豊子『女の勲章』上下巻、新潮文庫、2005年。
──『白い巨塔』全5巻、新潮文庫、2002年。
──『山崎豊子 自作を語る 人生編 大阪づくし 私の産声』、新潮文庫、2012年。
*なお、『ハムレット』からの引用は福田恆存氏の翻訳に拠りました。

 
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入江哲朗

1988年生まれ。アメリカ思想史、映画批評。東京大学大学院博士後期課程修了。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員PD。著書に『火星の旅人――パーシヴァル・ローエルと世紀転換期アメリカ思想史』(青土社、2020年)、『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』(共著、石岡良治+三浦哲哉編、フィルムアート社、2018年)など、訳書にブルース・ククリック著『アメリカ哲学史――一七二〇年から二〇〇〇年まで』(大厩諒+入江哲朗+岩下弘史+岸本智典訳、勁草書房、2020年)など。
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