世界は五反田から始まった(13) 党生活者2|星野博美
初出:2020年1月24日刊行『ゲンロンβ45』
大五反田ツアー
2019年12月21日、ゲンロン総会プログラムの一環として「大五反田ツアー」を行った。東急池上線戸越銀座駅に集合し、最終目的地のゲンロンカフェまで、大五反田域内を歩くという企画で、19名の会員が参加してくれた。想定していた2時間を大幅に超え、カフェに到着した時は4時間近くもたっていたが、一人も欠けることなく無事完歩できた。
本ツアーの裏テーマとして私が設定したのは、「無産者」という言葉だった。くしくもツアー終了後に参加者の方から、「無産者とは何か、聞きそびれてしまった」というコメントをいただき、現場できちんと説明しなかったことを反省した。考えてみたら、革命や共産主義に関心がある(傾倒とまでは言わないものの)人以外には、あまりなじみのない言葉かもしれない。
無産者とは、生産手段を持たず、自らの労働によって得た賃金で生活する者のことで、プロレタリア(無産階級はプロレタリアート)とも言う。対する敵は、雇用する側の資本家、ブルジョワ(資本家階級はブルジョワジー)。マルクスの「共産党宣言」によって広く普及した、共産主義の中核を成す階級概念である。
大五反田は無産者と縁が深く、ツアーではそれにまつわる三つの場所を訪ねた。小林多喜二が無産階級の覚醒を目指してオルグに入り、その体験をもとに書いた『党生活者』の舞台となった藤倉工業の五反田工場跡地。日本で初めてできた無産階級のための託児所にして、宮本百合子の『乳房』の舞台となった「荏原無産者託児所」跡。そして同じく日本で初めてできた無産階級のための診療所、「大崎無産者診療所」跡である。この三つが大五反田域内に揃っていることを、ツアーでは体感してほしかった。
つまりそれだけ戦前の五反田界隈には、低賃金労働者が多かったということに他ならない。
託児所、診療所についてはゆくゆく触れることとして、前回に引き続き小林多喜二の話をしよう。ツアー参加者は、当日見た風景を思い出しながら読んでいただけたら幸いだ。
『党生活者』にこんな件がある(文中の「倉田工業」は藤倉工業を指す)。
待合とは、連れ込み宿のような風俗営業店のことだ。五反田駅から、山手線外側の線路沿いの道を藤倉工場跡地に向かって目黒方向へ歩く途中、ラブホテルが林立する一角がある。多喜二が描いているのは、まさにあのあたりだろう。彼がその風景を見てから約87年が経過しているにもかかわらず、界隈の土地柄が変化していないことに驚きを隠せない。わが家が、祖父の始めたバルブコック製造業といまだに手を切っていない(1997年に工場は閉鎖したものの、完全には廃業しておらず、父が細々と仲介の仕事を続け、私は製品の運搬を手伝っている)のと同様、待合業者の末裔がラブホテルを経営しているのかもしれない。
この一角には実に奇妙な空気が流れている。藤倉工場跡には化粧品大手のポーラと、NTTグループのシステム開発を行うNTTコムウェアのモダンなビルが建ち、その裏手には大田区上池台から2008年に移ってきた学研ホールディングスの高層本社ビルがある。化粧品に情報産業、教育事業から介護事業までと、ある種現代日本を代表する企業が揃い踏みしているわけだが、そこへ向かうためには小さな飲み屋とラブホテル街を通らなければならないのだ。
待合に注目すると、ツアー参加者はその直前に訪れた廃業旅館、海喜館を思い出すだろう。本連載4回にも登場した、地面師らによる大型詐欺でセキスイハウスが55億円を騙しとられた事件の舞台である。藤倉界隈の待合が労働者向けなら、目黒川沿いに建つ大正モダンの海喜館は、資本家が軍関係者を接待する際に使うような位置づけだったのだろう。
余談だが、ポーラが通販事業として1984年に創業したオルビス株式会社の本社は、荏原無産者託児所跡のすぐ近くにある。おそらく偶然だろうけれども、実に意味深だ。
託児所、診療所についてはゆくゆく触れることとして、前回に引き続き小林多喜二の話をしよう。ツアー参加者は、当日見た風景を思い出しながら読んでいただけたら幸いだ。
『党生活者』にこんな件がある(文中の「倉田工業」は藤倉工業を指す)。
倉田工業から電車路に出ると、その一帯は「色街」になっていた。電車路を挟んで両側の小路には円窓を持った待合が並んでいる。夜になると夜店が出て、にぎわった。そして、その辺一帯を「何々」組の何々というようなグレ(不良)が横行していた。[★1]
待合とは、連れ込み宿のような風俗営業店のことだ。五反田駅から、山手線外側の線路沿いの道を藤倉工場跡地に向かって目黒方向へ歩く途中、ラブホテルが林立する一角がある。多喜二が描いているのは、まさにあのあたりだろう。彼がその風景を見てから約87年が経過しているにもかかわらず、界隈の土地柄が変化していないことに驚きを隠せない。わが家が、祖父の始めたバルブコック製造業といまだに手を切っていない(1997年に工場は閉鎖したものの、完全には廃業しておらず、父が細々と仲介の仕事を続け、私は製品の運搬を手伝っている)のと同様、待合業者の末裔がラブホテルを経営しているのかもしれない。
この一角には実に奇妙な空気が流れている。藤倉工場跡には化粧品大手のポーラと、NTTグループのシステム開発を行うNTTコムウェアのモダンなビルが建ち、その裏手には大田区上池台から2008年に移ってきた学研ホールディングスの高層本社ビルがある。化粧品に情報産業、教育事業から介護事業までと、ある種現代日本を代表する企業が揃い踏みしているわけだが、そこへ向かうためには小さな飲み屋とラブホテル街を通らなければならないのだ。
待合に注目すると、ツアー参加者はその直前に訪れた廃業旅館、海喜館を思い出すだろう。本連載4回にも登場した、地面師らによる大型詐欺でセキスイハウスが55億円を騙しとられた事件の舞台である。藤倉界隈の待合が労働者向けなら、目黒川沿いに建つ大正モダンの海喜館は、資本家が軍関係者を接待する際に使うような位置づけだったのだろう。
余談だが、ポーラが通販事業として1984年に創業したオルビス株式会社の本社は、荏原無産者託児所跡のすぐ近くにある。おそらく偶然だろうけれども、実に意味深だ。
多喜二がいた頃の藤倉
小林多喜二は、どのような経緯で藤倉に「潜る」ことになったのだろう? 前号でも参照した郷土史の資料『品川の記録』(川上允著)に興味深い件がある。藤倉工業の「マツ子」という労働者が「赤旗」に送った投書である。
昨年の始め××××が×万という莫大な毒ガスマスクの注文を陸軍省から受け取ると同時に、三百人足らずの本工では間に合わず、一ヵ月程の間に六百人以上の臨時工を募集した。
賃金は男は、十三時間もしくは徹夜と無制限に働かされても、一円五十銭前後で、二円取れるといふ者は無いし、女はもっとひどく十三時間で残業手当を入れて、一円〇九銭という安さだ。休憩は飯時三十分休ませるきりで、重役、検査官(陸海軍将校)社長親子まで総動員で仕事場をウロウロして、監視しているし、便所に行くのまでかぞえている始末だった。食堂、便所、脱衣所等の工場設備も三百人分しかない所に千人の従業員が働いているので、便所は毎日ビシャビシャあふれているし、弁当は立ったまま食べたり仕事場の板の間の上に座って食べたりする状態だった。
そんな有様であるから、皆の不満はひどかった。臨時工の中でも数名元気のいい連中がいたので、工場の帰り路でしるこなんかを食べながら、「どうしたらいいか」と相談した。
(中略)元気のいい人の一人が「プロ小説家の小林さんを知っているからあの人に頼んできてもらって、皆を集めたらどうだろう?」と言い出した。それも未組織の人を大衆的に集める一つの良い方法なので早速一人丈工場を早引して、同志小林に頼みに行った。
私達は、何しろ十三時間労働を強いられているので、集合の場所さえ探すことは出来なかったが、同志小林は非常に親切に、何から何まで世話をやいてくれた。[★2]
多喜二が率先して藤倉に狙いを定めたというより、劣悪な環境で働く非正規雇用の労働者の中から、要請があったことがうかがえる。それにしても「元気のいい連中」という表現がおもしろい。
若い人達は(ほとんどそうだった)が同志小林を「小父さん! 小父さん!」と呼んで親しんだ。
「小父さん小説書いたらどれ位もうかるの?」「あたい達の工場のこと小説に書いてよ」とか男女工が話かけるのに対して、同志小林はニコニコして答えていた。「君達の工場の事を小父さんだって書き度いのだけ(ママ)が、いつも監督におどかされて恐々しています。だの大人しく馘になりました。なんて事みっともなくてかけないじゃないか。今度の首切りなんか、君達がまっ先に起って、反対するんだね、そうすれば小父さんも、××の従業員はこんなに偉いんだと大威張りで小説にも書くよ」などと答へたりした。
集った二十余名は、同志小林に親しむと同時に感謝した同志小林が送らなくても良いと言うのに、ゾロゾロ駅までついて行って、面食はした(ママ)。[★3]
『党生活者』よりも心を掴まれる文章である。
私がこの小説にどうしても距離を感じてしまうのは、「同志小林」がどうあがいても労働者ではない、という点だ。そもそも主題が、「非合法の状態におかれた共産党員の困難で細心な用意を必要とする生活と活動を具体的に示し、日本文学ではじめて共産主義的人間の造形に成功した小説」(蔵原惟人)[★4]であり、労働者を描くことではない以上、仕方がないと言えば仕方がないのだが、『蟹工船』のような感情移入ができず、読んでいて鬱憤がたまる。
おそらく、同い年の祖父が同じ町の空の下で労働していたからこそ、そう感じてしまうのかもしれない。
下大崎の集落
さて、前回の終わりに、小林多喜二がほんの短い間でも五反田に住んだのなら、どこを選んだだろう? という疑問を提示した。共産主義イデオロギーが満載の『党生活者』の中で、下宿先界隈の描写は、当時の庶民の暮らしが垣間見える、ほっとする場面である。
下宿はどっちかと云えば、小商人の二階などが良かった。殊にそれが老人夫婦であれば尚よかった。その人たちは私たちの仕事に縁遠いし、二階の人の行動には、その理解に限度がある。なまじっか知識階級の家などは、出入や室の中を一眼見ただけでも、其処に「世の常の人」らしからぬ空気を鋭敏に感じてしまうからである。
(中略)今度の下宿はその中間をゆく家だった。おばさんはもと待合をしていたことがあるとか云って、誰かの妾をしているらしかった。[★5]
二階の私の室の窓は直ぐ「物干台」に続いていた。そして隣りの家の物干までには、一またぎでそこからは容易く別な家の塀が越せることが分った。私はそれで草履一足買ってきて、窓を開いたら直ぐ履けるように、物干台に置くことにした。ただ困ったことは、この辺の家は「巴里の屋根の下」のように立て込んでいるので、窓を少しでも開くと、周囲の五六軒の家の人たちやその二階などを間借りしている人たちに顔を見られる危険性があった。それらの家の職業がハッキリするまで、私は四方を締め切って坐り込んでいなければならなかった。それで私は世間話をするために、下へ降りて行った。世間話から近所の様子を引き出そうと思ったのである。
聞いてみると法律事務所へ通っている事務員、三味線のお師匠さん、その二階の株屋の番頭さん、派出婦人会、其他七八軒の会社員、ピアノを備えつけている此の辺での金持の家などだった。下宿を決めた夜のうちに、隣近所のことがこれだけ分ったということは大成功である。或いは口喧ましい派出婦人会だけを除くと、まず周囲はいい方と云わなければなるまい。[★6]
最初にこの件を読んだ時、「まさか、あそこか?」と思った。
主人公の「私」は下宿を探すにあたって、警察に追われている以上、「同じ地区だと可なり危険性がある」が、「然し他の地区ということになれば交通費の関係上困った」と迷う。そして悩んだあげく、警察の裏をかいて「同じ地区にいるのも悪くない」という結論に至った。そして藤倉の工場からさほど遠くないところに転がりこんだ。
私が注目したのは、「巴里の屋根の下」と彼が形容する、小さな家々がごちゃごちゃと折り重なるように建つ、斜面を思わせる立地だった。藤倉から徒歩圏内で、斜面に家がひしめきあっているところ……思いあたる集落があった。
ツアーでも訪れた、NTT東日本関東病院の正面に位置する、現在は東五反田4丁目、旧名「下大崎」の集落である。ここは、かつて市電が走っていた桜田通りと、都内有数の高級住宅街である池田山に挟まれた、いかにも、ある時期急激に人口が増えたため、適当に家を建てた投げやりな感じをいまだ色濃く残す一角だ。家々はあちこち好き勝手な方向を向いて建ち、道は狭くて行き止まりだらけ。戸越銀座の「ゲンロンの道」界隈とも、どことなく雰囲気が似ている。ツアー参加者にも、旧大名屋敷街である池田山とのコントラストを肌で感じてもらえたと思う。
ツアーの際には、その集落から桜田通り下のトンネルを通り、風俗店やラブホテルが林立する五反田有楽街のほうへ抜けた。戦前はそちらの一帯も下大崎と呼ばれ、こちら側と連続性のある集落だった。
なぜ私がこの集落に反応するかと言うと、実はここ、祖父・量太郎が10年あまりの徒弟生活を終え、独立して初めて工場兼住まいを借りた集落だと判明したのだ。13歳で上京した量太郎も、いつしか25歳になっていた。祖父の手記に、その時の記述がある。
中々お金といふものはタマラないもので、四、五年働いて七百円ばかり貯金が出来たのです。昭和二年九月、いよいよ独立すべく準備を初めた。数年二十六才です。色々お金も入用なので、後宿(筆者注*うしろじゅく:御宿・岩和田の一集落)の雑貨商金井貞雄さんから金五百円借用し、計千二百でスタートした(金井さんの利子年一割三分)。
以前五反田に永く居たので五反田方面を物色し、下大崎の二階家を借りる事にした。上八丈(筆者注*畳のまちがい)一間、下六丈と三丈の家です。下を全部コワシて工場にした。せまかったが旋盤二台、フライス盤一台、仕上台等も造った。皆な中古機械です。モーターは一馬力です。吹子、萬力(まんりき)等は御祝ひに頂いた。十月末頃から仕事を初めたものの色々な道具造や諸準備等で思ふ様にはならなかった。当初は同郷の岩野六治君、従弟の貝塚荘吉と三人で仕事を初めた。高輪の風間ポンプ店からバルブ、コックの鋳物を頂いて加工するのが主でした。加工賃はバルブ寸法2/1で一個五銭位でした。値段が安いので働く時間を延長し、夜業毎晩十時頃迄やった。切屑砲金粉一匁九十銭か一円位の相場が続いた。
そして翌3年3月5日、同郷の山側出身の井上きよと結婚し、「披露宴はせまい工場の二階八丈間で近所から料理をとってささやかにやりました」。二人はここに、昭和6(1931)年まで暮らし、その後もう少し広い場所を求めて目黒川沿いへ引っ越した。
たまたまツアー当日、父がNTT東日本関東病院に入院していた。家族の出発点である集落を窓の外に眺められる病院は、そうそうない。私がこの病院に固執するのも、無理からぬことなのだ。
ナッパ服としるこ
「世の常の人」である祖父・量太郎は、必死に労働するだけだったが、階級闘争のために五反田へやって来た多喜二はそうはいかない。『党生活者』には潜伏活動家としての苦悩が切々とつづられる。
我々が「潜ぐる」というのは、隠居するということでは勿論ないし、又単に姿を隠くすとか、逃げ廻わるということでもない。知らない人は或いはそう考えている。が若しも「潜ぐる」ということがそんなものならば、彼奴等におとなしく捕まって留置場でジッとしている方が事実百倍も楽でもあるのだ。「潜ぐる」ということは逆に敵の攻撃から我身を遮断して、最も大胆に且つ断乎として闘争するためである。[★7]
私がまず気付いたことは、八百人もいる工場で、四五人の細胞だけが懸命に(それは全く懸命に!)活動しようとしている傾向だった。それは勿論四五人であろうと、細胞の懸命な活動がなかったら、工場全体を動かすことの出来ないのは当然であるが、その四五人が懸命に働いて工場全体を動かすためには、工場の中の大衆的な組織と結合すること(或いはそういうものを作り、その中で働くこと)を具体的に問題にしなければならない。そのための実際の計画を考顧しなかったら、矢張りこの四五人の、それだけですこしも発展性のない、独り角力ずもうに終ってしまうのだ。[★8]
私達はこうして、敵のパイ共からばかりでなく、味方のうちの「腐った分子」によっても、十字火を浴びせられる。その日交通費もあまり充分でなかったので、歩いて帰った。途中私の神経は異常に鋭敏になっていた。会う男毎にそれがスパイであるように見えた。私は何べんも後を振りかえった。[★9]
私が反応するのは、実は以下のような箇所だ。
十時過ぎてから外をウロつくのは危険この上もなかった。それに私はまだナッパ服のままなので、一層危険だった。[★10]
ナッパ服──工場労働者の制服ともいえる作業着のことだ。山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズに登場する、タコ社長が着ていた、あれだ。和製パンク・バンドの草分け、「アナーキー(現在は「亜無亜危異」の名で活動)」もナッパ服を好んだ。
星野製作所のナッパ服は、カーキに近いねずみ色だった。父も祖父も、仕事の際には必ずナッパ服を着た。父の足元はつま先に鉄板の入った安全靴だったが、祖父は靴が嫌いで、足袋に雪駄というのがおきまりだった。祖父の靴嫌いは、集落から目と鼻の先に砂浜が広がっていた、漁師の生活習慣と関係があるのかもしれない。
おかしな話がある。私は10代半ばで中国に入れこみ、当時渋谷のスペイン坂に開店したばかりだった中国雑貨店「大中」に足繁く通った。そして人民服に人民帽、カンフーシューズを買い求め、私服の学校だったので、それらを身に着けて登校した。「博美ちゃんが、最近へんだ」という噂が近所で立ったのはその頃だった。
それから数年後、大学に入ってからのこと。ある日帰宅して自宅隣の工場に寄り、働く父に声をかけた。振り返った父は、なんと私の人民服を着、正面に赤い星の刺繍が入ったカーキ色の人民帽をかぶっていたのだ。唖然とする私に父は、「おまえ、どうせもう着ないだろ?」と言い訳をし、「汚れが目立たなくて、けっこういいわ」と言った。
勝手に人民服を着られたことを非難したのではなく、感動して言葉を失ったのだった。人民服は、労働者のための服。工場で着るのが最も正しい。まさか、人民服の着こなしを父から教わるとは思わなかった。
思春期の私が異様に人民服に惹かれたのは、ナッパ服と似ていたからなのかもしれない。
たったこれだけだが、好きな箇所である。祖父も、しること大福、鯛焼きに目がなかった。労働者は、三度の飯のみでは体力がもたない。うちでは祖父母の墓参りの際には、必ず大福を供えている。
祖父が上京したばかりだった大正5(1916)年の、こんな記述があった。
大五反田ツアーでも、4時間弱に及ぶ徒歩の旅を支えてくれたのは、おめで鯛焼き本舗戸越銀座店の鯛焼きだった。
勝手に人民服を着られたことを非難したのではなく、感動して言葉を失ったのだった。人民服は、労働者のための服。工場で着るのが最も正しい。まさか、人民服の着こなしを父から教わるとは思わなかった。
思春期の私が異様に人民服に惹かれたのは、ナッパ服と似ていたからなのかもしれない。
女たちは工場の帰りには腹がペコペコだった。伊藤や辻や佐々木たちは(辻や佐々木は仲間のうちでも一番素質がよかった)皆を誘って「しるこ屋」や「そばや」によった。一日の立ちずくめの仕事でクタクタになっているみんなは甘いものばかりを食った。[★11]
たったこれだけだが、好きな箇所である。祖父も、しること大福、鯛焼きに目がなかった。労働者は、三度の飯のみでは体力がもたない。うちでは祖父母の墓参りの際には、必ず大福を供えている。
祖父が上京したばかりだった大正5(1916)年の、こんな記述があった。
入った時私の小使いは月二十銭でした。活動写真五銭、おそばかけが三銭の時代です。大福餅が好きだったので途中腹のへった時等はよくたべた(三銭位)。主人はとてもあまい物が好きだった様で、毎朝の様に餅菓子をたべるのでよく買いに行った。夜十時に仕事が終り、かんたんなおそうじをして銭トウに行き、夜食を頂き乍雑談をして居るともう十二時です。又朝六時過ぎに起き、機械油差等するのが大変でした。
大五反田ツアーでも、4時間弱に及ぶ徒歩の旅を支えてくれたのは、おめで鯛焼き本舗戸越銀座店の鯛焼きだった。
★1 小林多喜二「党生活者」『蟹工船・党生活者』、新潮文庫、1953年発行、2003年改版、182頁。強調は原文のママ。
★2 川上允著、「品川の記録」編集委員会監修『品川の記録 戦前・戦中・戦後――語り継ぐもの』、本の泉社、2008年、38‐40頁。
★3 同書、41頁。
★4 蔵原惟人「解説」、『蟹工船・党生活者』、278頁。
★5 「党生活者」、前掲書、173頁。
★6 同書、175‐176頁。
★7 同書、158‐159頁。
★8 同書、180頁。
★9 同書、185頁。
★10 同書、169頁。
★11 同書、202頁。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後
星野博美
1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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