世界は五反田から始まった(17) 赤い星|星野博美

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初出:2020年05月25日刊行『ゲンロンβ49』

無産者闘争の頓挫


 これまで約半年にわたって、小林多喜二が描いた五反田の藤倉工業、宮本百合子が描いた荏原無産者託児所、そして大崎無産者診療所の話をしてきた。これらの場で繰り広げられた無産者のための闘争は、残念ながらさほど長くは続かなかった。

 荏原無産者託児所が閉鎖されたのは1933(昭和8)年8月のことだ。五反田有楽街のはずれにあった大崎無産者診療所も、8月19日に所長の大栗清實医師が治安維持法違反で逮捕され、10月11日には勤務員全員が総検挙されたことで、やむなく閉鎖に追いこまれた。

 無産者託児所で働く保母たちが検挙され、弾圧が激しくなった1933年2月15日付けで、荏原無産者託児所委員会が発した「檄」文が残されている★1


 我が荏原無産者託児所は、その開設以来、広く一般勤労者大衆及び労働者の支援を得て日毎に発展の道を辿り、益々その必要を確認され、労農救援会の経営の下に支配階級の度々の弾圧を蹴って進んで来た。然るに十二月十七日玉姫クラブに於いて開催された「労働者懇談会」に出席した保母の検束をきっかけとして、所轄大崎警察署は未曾有の野蛮さを以て、我が荏原託児所の弾圧を始めた。十二月二十二日には又一人の保母を、更に同二十六日に至り一人の保母を検束し留置した。

(中略)家主秋山は二回に亘り、スパイの風をよそおって、手伝いに来て居た父母達をおどしつけ、追ひ出して戸を閉め、之を釘づけにする等凡ゆる圧迫を、大崎署と協力の下で、実行しているのだ。

(中略)こうして、大崎署と家主は、手を円くにぎり合って、家主は立ち退きを、大崎署はその管内から移転を、公然と父母達に強制しているのである。

 諸君!

 今や一つの合法的組織が家主と大崎署との悪ラツなる意図によって、破壊されようとしているのだ。我々は決して、彼らの手につぶされるものではない。然し、彼らの全く不当な、理由なき弾圧に対して、手をこまねいている事は出来ない。今まで公然と、合法的に活動していたものが、破壊されるといふ事は、全勤労者大衆の敗北を示すものだ。

 我々は全国の労働者、農民、一般勤労者、大衆及びその大衆的・革命的団体に対して、熱心に訴える。

 我々の此の窮状に目を向けろ! そして共同戦線の立場に立って、凡ゆる団体から、サークルから、個人から、組合から、大崎署長及び、家主秋山に対して、弾圧反対の抗議文を、嵐の如く叩きつける事及び、抗議を組織する事を熱心に訴える。


 現在の大崎警察署は、山手通り沿いの、五反田と大崎の中間地点あたりにあるが、戦前はちょうどゲンロンカフェのあたりにあった。私がゲンロンカフェへ向かう際にだらだらと下っていく坂道を、かつての私服刑事たちは登って託児所に向かっていたわけである。

 この檄文が出される11日前の2月4日、私の父は大崎警察署に近い、目黒川沿いで生まれた。

小林多喜二の死


 そして檄文が出されたわずか5日後の2月20日、小林多喜二がとうとう捕まってしまった。その日多喜二は仲間の今村恒夫とともに、共産青年同盟の三船留吉に会うため、赤坂の飲食店へ向かった。しかしこの三船が実はスパイで、店で待ち受けていたのは築地署の特高だった。多喜二は必死に走って逃げるも、溜池の路上で格闘の末に捕縛され、築地署へ連行。特高ナップ係の中川成夫やその部下に激しく3時間もの間拷問され、瀕死の状態で前田病院(築地署の真裏にあった)へ運ばれた。が、間もなく絶命した。

 ノーマ・フィールド『小林多喜二』(岩波新書、2009年)によると、多喜二の馬橋(現在の阿佐ヶ谷南)の自宅には、知らせを受けた母・セキや、小樽時代の友人・斉藤次郎、乗富道夫、寺田行雄や、作家同盟の仲間が多数集まった。築地小劇場を創立した千田是也たちがデスマスクをとり、画家の岡本唐貴が死に顔を描いた。安田徳太郎医師が遺体を検査し、作家の窪川(佐多)稲子と中条(宮本)百合子が安田医師を手伝い、多喜二の服を脱がせた。宮本百合子もかけつけていたのだ! 露わにされた遺体のむごたらしさに、誰もが声を出して顔をそむけたが、母・セキは集まった者らに「傷跡を見よ」と凄味をもって襟をかき拡げたという。

 遺族や友人たちは、遺体の司法解剖を望んで病院3軒に当たったが、すでに特高の手が回り、解剖を受けることはできなかった。翌21日、死因は心臓麻痺であると、一般メディア――彼らがいうところのブルジョア新聞やラジオ――では発表された。そして拷問死であったことは、終戦後まで公表されることはなかったのである。

 馬橋の家にかけつけた仲間の多くは検束され、告別式は厳重警戒の下、身内とひとにぎりの知人によって行われた。棺は赤旗に包まれた。火葬場までの沿道にも、火葬場内にも、武装した警官が立ち並んでいた。

 多喜二の弟、三吾はのちに東京交響楽団のバイオリニストとなる人物だが、多喜二の死についてこう語っている。


 ショックでしばらくの間、記憶喪失になりました。近所の人たちの冷たい目、手の平を返すように離れていった人たち。私たちは肩をすぼめ、くちびるをかんで耐えたものです。……私が所属する楽団でも多喜二の弟であることを、人に話したことはありません。★2

 虐殺という言葉にも会いたくありません。多喜二に対してよく使われるこのような言葉は、たとえそれが兄の最後を表現する上でふさわしいものだとしても、いや、ふさわしいがゆえに、私はこの言葉が何にもまして嫌いなのです。★3


 多喜二の遺体を検査した安田徳太郎医師……どこかで名前を目にしたことがある気がして、『品川の記録』を読みなおしてみたところ、なんと大崎無産者診療所の設立に関わった人物だった。
 無産者診療所設立の直接のきっかけは、前年の1929年(昭和4年)3月5日に労農党員の山本宣治(性教育や産児制限を提唱した生物学者、政治家)が、右翼の政治テロで殺害された翌日、お通夜の席で「山宣記念病院をつくろう」との話が出たことが発端だった。その初代所長となった大栗清實がこう述べている。


 山宣のお通夜や、労農葬に集まった人々の間から、解放運動の犠牲者やその家族の健康を守るためにも『無産者の手で、無産者病院を作ろう』という要望が出され、無産者病院設立運動となりました。

 此の運動の中心となったのは、昭和三年四月創立したばかりの救援会で、これに、秋田雨雀さんや、京都の安田徳太郎さんや大阪の岩井弼次さん等の個人を加え、関東消費組合連盟、自由法曹團などを発起人にして発起人会が結成され、第1回の発起人会は本郷の一高前のキリスト教青年会館で開かれました。★4


 五反田で共産党員が活動していたこれら3つの地点は、このように切っても切れない関係にあった。

 多喜二がオルグをした五反田の藤倉工業の、「まつ子」という労働者が、共産党の機関紙『赤旗』に投稿した文章が残されている。


 ブルジョア新聞は決して虐殺したとは書かなかったが、××会社の従業員は、誰でも同志小林が「殺されたのだ」ということを知っている。私達の役目は、単に一匹の官犬に殺されたのではなく、ブルジョア地主の天皇制が殺した事、しかもこの事実は我々に対する労働強化監獄的監視と同じく、支配階級がやったことを理解させることにある。

 我々従業員有志は、同志小林の虐殺を知るとすぐ、同志の自宅に追弔文を送り、築地署に抗議文を叩きつけた。

 我々は同志小林の偉大なる階級的犠牲の前に、一層強力に、日本帝国主義の心臓たる軍需品工場内に於いて闘争することを誓う!★5


 多喜二と親交のあった、と言うより、多喜二が熱烈なファンであった志賀直哉は、丁寧な手紙と香典を母のセキ宛てに送った。魯迅は弔電を送り、彼が発起人となって中国の文学者が遺族のための募金活動を始めた。フランスでは共産党機関紙『ユマニテ』紙が抗議活動を呼びかけた。

 私は五反田を歩くたび、いつも不満に感じている。ここが75年前に焼け野原になり、戦前の建造物がほとんど消えてしまったことは差し引くとしても、過去を思い出させるきっかけが、この街にはなさすぎる。ここで小林多喜二がオルグ活動をした、日本初の無産者託児所と無産者診療所がここにあった、ここは焼け野原になった……。銅板プレートくらいは貼りつけてもよいのではないか。戸越銀座商店街の片隅に、関東大震災後に銀座から譲り受けた白煉瓦は展示されているのに、無産者闘争にまつわる記憶は何一つ残されていない。
 もし日本に革命が起きていたら、五反田は聖地の一つとなっていただろう。五反田に、革命記念博物館の1つや2つは建っていたはずなのだ。

 私がどうしてもそんな思考回路になってしまうのは、若い頃、進んで社会主義国家を旅行していたからなのだと思う。中国各地に残る革命記念博物館や革命烈士の墓。東ベルリンに残るローザ・ルクセンブルク広場駅やカール・リープクネヒト通り、そしてマルクス・エンゲルス広場駅(ちなみにローザ・ルクセンブルク広場駅とカール・リープクネヒト通りはいまも健在だが、マルクス・エンゲルス広場駅は、東西ドイツ統一後の1992年、ハッケシャー・マルクト駅と改名された)……。革命に関わった人物や、その時の国家権力に惨殺された共産主義者の名は地名に残すべきだ、という刷りこみが、五反田を歩いている時に突如頭をもたげてくる。

 しかし日本に革命は起きなかったし、それらの記憶を語り継ぐのは、いまでは共産党に関わる古参の人たちのみだ。

 住民の一員として、せめて記憶だけはしておきたいと思うのである。

★1 川上允著、「品川の記録」編集委員会監修『品川の記録 戦前・戦中・戦後――語り継ぐもの』、本の泉社、2008年、71頁。
★2 ノーマ・フィールド著、『小林多喜二――21世紀にどう読むか』、岩波新書、2009年、243頁。『北海道新聞』、1977年4月22日より。
★3 ノーマ、同書、244頁。『文化評論』、1973年2月号より。
★4 川上、同書、45-46頁。
★5 川上、同書、43頁。「赤旗」第126号、1933年より。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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