当事者から共事者へ(5)「真実」が開く共事の回路|小松理虔

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初出:2020年05月25日刊行『ゲンロンβ49』

 前回寄稿した文章が公開された少し後、ツイッターに投稿された読者の感想をひとしきり検索していると、その中に気になるものをひとつ見つけた。以前北茨城に住んでいたという男性がぼくの連載を、「かわりゆく炭鉱期の遺構を人の記憶とともに訪ね歩いている」と、当時の高萩市の写真とともに紹介してくれていたのだ。この投稿を見て、ぼくはハッと気づかされた。そうか、ぼくは人の記憶とともに歩いていたのか、と。その時は写真を撮るのに精一杯でそうとは思っていなかったけれど、確かにぼくは、母の記憶や言葉を頼りに自分の祖父のことを想像していたし、それについて書いた。自分であんな文章を書いておいて間抜けだが、なるほど確かに、ぼくは人の記憶とともに歩いていたのかもしれない。

 思えば、町を歩くという行為は、「人の記憶とともに歩く」ことに他ならない。語り部やガイドがいる町歩きは特にそうだ。彼らの語る町の記憶――以前ここにはこんなものがあったとか、ここでこんなことをしたとか、震災前はこんな風景が広がっていたんだとか――は、その人と不可分なものだ。だからこそ観光客は、ガイドが語る私的な記憶に、検索窓の外にある固有の物語を見出すことができる。観光名所の説明なら誰だってできるだろう。その人固有のナラティブが語られて初めて、町歩きに感情が生まれ、そこに想像力が立ち現れるのだ。

 読者の感想を目にし、ぼくは「町歩き」と共事について考えてみたくなった。まず参考にしたいのが、福島県南相馬市小高に在住する作家、柳美里さんの『町の形見』だ。町と記憶、フィクションについてとても示唆に富む作品である。少し遠回りになるが、まずはこの作品について考えるところから本稿を始めたい。

「真実」が開く共事の回路


『町の形見』は、二〇一八年一〇月一五日から二〇日まで、小高町の小劇場La MaMa ODAKAで上演された演劇作品だ。柳が主宰する劇団、青春五月党の復活公演として上演され話題となったことを覚えている読者もいるだろう。舞台に上がるのは、南相馬在住のいずれも七〇代のアマチュアの男女八人と、プロの俳優たち。住民が語り部として自身のエピソードを語ったのち、彼らの震災時の記憶を俳優たちが演じるという構成だった。八人のエピソードは、震災を機に福島に通い始めた柳さんがパーソナリティを務めた南相馬ひばりエフエムの番組「柳美里のふたりとひとり」で聞いた話が元になっている。

 強烈な作品だった。悲しい体験をした南相馬の皆さんが語り部となって舞台上に現れ、幼少時の思い出や青春時代の記憶、震災や原発事故直後の話など自らの体験を語り、俳優たちが記憶や体験を同じ舞台上で演じるというものだった。パンフレットによれば、この作品は「記憶のお葬式」なのだという。その通り、とても悲しい劇だった。しかもその悲しいエピソードを、実際にその体験をした当人が語るのだ。期間中何度も再演される。悲劇を何度も繰り返し語らなければいけない地元の皆さんの心労を思うと余計に涙が出てきた。その悲しみは、観劇し終わっても数日の間残り、精神的に不安定な状態が続いたほどだった。

【図1】青春五月党 復活公演 vol.2「町の形見」より 提供=青春五月党


『町の形見』の戯曲は、その後書籍化されている。とある出版社の依頼を受け、ぼくはその本の書評を書くことになり、何度か繰り返し読んだ。文字は文字で鮮烈で、語り部の語る震災後の克明な記録などは心がざわざわして文字を追うだけで精一杯だった。この台詞は、柳さんが書き起こしたものだ。だから本に収められた言葉は、柳さんの言葉として書かれている。けれどもそれは、元を辿れば震災と原発事故を体験した南相馬の皆さんがラジオ番組で語ったことだ。どういう気持ちで柳さんに話をし、どういう気持ちで劇に参加し、あの台詞を発したのだろう。どういう過程で自分の記憶と向き合ったのだろうと思いを馳せると、やはり劇を見た後のように胸が苦しくなった。
 しかしその胸の苦しさは、今から振り返れば、演劇と本を通じて、悲しみと「共事」した証でもあったのだと思う。誰かの深い悲しみに触れた時、ぼくたちはどうすることもできない。ぼくはその体験を共にしたわけではないし、その人とまったく同じ心を持っているわけでもない。ましてや劇中で語られたことは過去の出来事である。だから、悲しみの記憶には当事することができないのだ。ただそこに一緒にいるくらいしかできることはない。

 震災報道などで、劇と同じように被災者本人が当時を振り返る場面に遭遇する。多くの人は、被災者の言葉に共感することもできず、「大変だったんだなあ」「さぞかし悲しかったろうなあ」と一瞬は思うけれど、後を引くこともなく忘れ去ってしまうことが多いのではないだろうか。ぼくだって似たようなものだ。

 同じ「被災者が悲しみの記憶を語る」内容なのに、なぜ柳さんの作品には「悲しみと共事できた」と感じられたのだろう。なぜ、ぼくは何日も心が不安定になるほど、悲しみを受け取ってしまったのだろう。演劇が虚構の産物、フィクションだからだ。柳さんが本に書き出した台詞は、南相馬で被災した八人が語ったことがベースになっている。けれど、その事実には、幾重にも虚構の膜が重ねられていく。複雑な演出によって事実は事実らしさから離れる。そして、事実らしさから離れるほど、語り部の言葉はなぜか真実味や普遍性を帯びていくのだった。台詞を聞けば、語り部の言葉はいかにも事実のように思える。けれど、これはそもそも演劇作品として上演されたものであり、フィクションなのだ。事実ではない。それなのに、劇を見れば見るほど、語り部の言葉はまぎれもない真実としか思えなくなってしまう。『町の形見』は、ぼくにとってそんな劇だった。

 事実や現実に対しては「当事」することができる。特に、高い専門性や具体的な技能を持つ人たち、専門家や研究者たちは、具体的な支援の道を考えたり、課題解決の道筋を考えたり、カウンセリングしたり、あるいはその証言を記録したり。自らの高い専門性を活かして具体的な行動をとることができる。けれども、劇で繰り広げられているのは虚構である。寄り添おうと思っても寄り添うことができないのだ。そのくせ悲しみだけはひたひたと心に迫ってくる。観客は、ただ、そこにいることしかできない。そうして悲しみは、事実ではなく真実として語られた時、当事ではなく共事の回路を開く。「アーティストは事実を伝えるのではなく真実を翻訳するのだ」。『新復興論』の中に引用した、作家の古川日出男さんが語ったその言葉を思い出さずにはいられない。

 フィクションが開く共事の回路を通じて、ぼくたちは深い悲しみの記憶に触れる。当事者になることも、無関係を装うこともできない。観客席という宙ぶらりんな場所に、ただ、いることしかできない。しかしだからこそ、語り部や演者の声の震えに共震することができる。異なる震えをぶつけ合うのでも、震えを止めようとするのでもない。一緒に、共に震えるしかないのだ。だからこそ、誰かの心の中に閉じ込めていた悲しみがその人から漏れ出し、当事者の縛りから解放され、観客に、部外者に、そして社会に開かれるのではないだろうか。

 悲しみは、事実ではなく真実として語られた時、当事ではなく共事の回路を開く。共事の回路を通じて、悲しみは外部へと開かれ、わずかな希望へと姿を変える。演劇の専門家でもない、年に数回しか演劇を見ないようなぼくの戯言かもしれないが、そんなふうに解釈することはできないだろうか。

記憶とともに歩く


 ぼくが『町の形見』を通じてこのような考えに至ったのには、もうひとつ理由がある。戯曲を収録した本を、小名浜の町を歩きながら読んだのだ。天気が良く、歩きながら読んでみたら気持ちいいだろうなとふと思っただけなのだが、そうしたことで、地元のあちこちに残る「形見」が喚起する想像の力を、ぼくは実際に感じることができた。町歩きは、演劇を鑑賞することに似ているのだ。
 よく晴れたある日の朝、ぼくは本を片手に家を出た。商店街を貫く通りではなく、家の前の交差点を細い道の方に右折し、自宅の裏側にある古びたスナック街を抜けた。地名を、小名浜あざ松之中という。歓楽街から離れたこの地区にスナックがあるのは、この道の先に今は「三菱ケミカル小名浜工場」と名を変えた「日本水素小名浜工場」があったからだ。そこで働く人たちが「一杯引っかける」ためにスナックはできた。ある店の外壁は、ぼくの家の壁とほんの二メートルくらいしか離れていない。週末の夜の騒音は並大抵ではなかった。調子がいい時は一緒に口ずさむこともあったけれど、受験生だった頃はわけが違う。何度「燃えちまえ」と思っただろう。そんな光景を思い起こし、脳内に、あの頃無理やり聞かされた昭和のメロディが蘇った。

【図2】このスナック街の裏に、ぼくの生まれた家がある


 文字に視線を戻しつつ歩みを進め、貨物鉄道「福島臨海鉄道」の小さな踏切を渡って、工場のそばを海側へ抜けていく。かつてここには、広大な小名浜海水浴場の砂浜が広がっていた。その美しい砂浜と海を埋め立てて巨大な工業団地が作られたことを、ぼくは『新復興論』に詳しく書き記した。炭鉱夫の娘だったぼくの母は、福島臨海鉄道が旅客を乗せていた時代に、炭鉱町から何度も小名浜の砂浜を訪れたそうだ。旅客を乗せていなければ、もしかしたらぼくは生まれていなかったかもしれない。母の語る小名浜の美しい砂浜は、灰色の工業団地しか知らないぼくにとって、理想の小名浜そのものだった。

 工場そばのあたりを、小名浜字たかやまという。ぼくの家のある松之中の隣の地区だ。外の人からしたら些細な違いかもしれないが、より工場に近く、風景も歴史も、町の臭いも違う。地元の人間が「高山グランド」と呼んだ、工場労働者のための広場があったのもこの高山だ。小学生の頃、その広場で友達とサッカーをした。キャッチボールもたくさんした。広場の端の草藪ではバッタを追いかけ、用水路の側溝ではカエルの卵を採った。広場のそばに来ると、仲良しだった同級生の声や表情を今も思い出すことができる。

 しかし、その「高山グランド」は、今はもうない。震災後にできた「イオンモール」の従業員が使う駐車場へと姿を変えたのだ。この地区がかつて砂浜だったことを示すクロマツの木(いわき市内の沿岸は防風林としてクロマツがよく植林されていた)も伐採された。美しく舗装された駐車場には土埃すらない。「高山グランド」は、津波でなくなったのではない。復興でなくなったのだ。母は砂浜を懐かしむ。ぼくは、それを潰してできた工場のグランドを懐かしむ。いずれは、駐車場を懐かしむ世代が生まれてくるのかもしれない。

【図3】従業員駐車場へと姿を変えた高山グランド


 いざこうして歩いてみれば、町には確かに形見があった。あらゆるものが、誰かの、そこで生きてきた痕跡でできている。ぼくにとって思い入れのない場所だって、誰かにとっては大事な場所なのだろう。一人で歩いていても不思議と孤独感はなかった。両親の顔が思い浮かんだし、友人たちの顔も見えた。幼い頃のぼくもいたし、受験生のぼくもいた。町を歩くと、いつの間にか自分自身と一緒に歩いていることに気づいた。それはまるで、何かの演劇作品のようだった。

 町を歩いてみて、強く感じたことがもうひとつある。「地名と記憶」の関係だ。「小名浜」と思い浮かべると、美しい海や、美味しい海産物、いわきを代表する観光地としての姿を思い浮かべるが、「松之中」や「高山」、つまり「字」の名を聞くと、具体的な風景が思い浮かび、記憶が呼び覚まされる。町村より小さい地区名である字は、とてもプライベートなものであり、「わたし」の記憶と結びついているものだからだ。つまり、「字」は想像力を喚起する。
 この文章を読んでいる人の中に、「いわき」や「小名浜」と聞いて、何となくイメージできるものがあるという人は多いはずだ。情報として共有できるものも多いだろう。人口はどのくらいで、どのような歴史があり、どういう産業がある、とか。そこで思い浮かぶ小名浜と、ぼくのイメージする小名浜には、大きな違いはないと思う。

 一方、「松之中」や「高山」という地名を聞いて具体的に実際の風景を思い浮かべることができる人はほとんどいないだろう。ウィキペディアにも情報はないから、ほとんど何も想像できないと思う。けれど、具体的なイメージは浮かばないのに、「リケンさんにとって重要な松之中のような場所を自分も持っている」というようなことを感じてくれる人ならいるはずだし、自分の地元を思い出す人もいるかもしれない。つまり、ぼくの思い浮かべているものとあなたの思い浮かべているものは違うのに、なぜかつながってしまうのだ。

 極めて個人的なものであり、具体的には共通のイメージを持たないのに、なぜか別のところで共感を生み出してまう。実際の「松之中」の情報や光景を共有したわけではない。それぞれの心の中にある「松之中的なもの」でつながってしまうという感じだろうか。

『町の形見』でも、この「字」が大きなポイントになっている。劇の中で演者が自分の出身地を声に出して発話するのだ。ぼくはそのシーンを忘れることができない。福島県南相馬市原町区萱浜南才ノ上。福島県双葉郡富岡町本岡王塚。「字」は、個人の記憶と結びついている。だから「福島県」でも「浜通り」でも、「双葉郡」でも「富岡町」でも語ることのできないものをぼくたちに示す。

 ほとんど聞きなれない「字」の地名。どんな場所かは想像できないくせに、いや、それが想像できないものだからこそ、語り部にとって自分の命と同じくらい大事なものなのだということ、そのように大事なものを震災と原発事故が奪っていったのだということを、観客は感じ取ってしまう。

「福島」は「事実」を語る。だから現実のリアリティに取り込まれてしまうのだ。けれども、「字」は個人の記憶と結びついて「真実」を立ち上げる。地名を、事実ではなく虚構、つまり「真実としか言えない何か」の形へと変えるために、柳さんは意識的に「字」を用いたのではないだろうか。『町の形見』とは、地名を「字」で語ることで事実から離し、より外部へと悲しみを開く試みだったと言えるかもしれない。

 さきほども触れたが、柳さんは『町の形見』を「記憶のお葬式」だと書いている。なるほど、それを劇場で見た人は葬式に参列したことになるのだろう。参列者として実際に劇を見られたぼくは運が良かったのかもしれない。では、そこに参列できなかった人は、もう供養することができないのだろうか。いや、そうではない。ぼくが『町の形見』を読みながら町を歩いたことこそ供養ではないか、と思う。ぼくが歩いたのは「福島県南相馬市原町区萱浜南才ノ上」ではなく「福島県いわき市小名浜松之中」だったが、だからこそ「町の形見とはいかなるものか」ということを理解できた気がするのだ。劇の舞台となった双葉郡を辿れなくてもいい。あなたにとっての「字」を辿ることが供養になる。戯曲は、その手引きだ。
 町歩きとは、観光とは、そもそもが町の形見を供養することだ。そこにあったものを思い偲ぶ。思い出す。在りし日を想像する。忘れないでいる。当事者と同じ具体的な何かをイメージできなくてもいい。あなたの記憶の中にあるものと結びつきさえすれば、町の形見を供養することができるのだ。観光とは、供養とは、極めて共事的な行為なのだ。

個人がつくる想像力


 極めて個人的な記憶が、その唯一性ゆえに想像力を喚起し、当事ではなく共事の回路を開いてしまう。そのもっとも具体的な実例が「コミュニティ・ツーリズム」だろう。

 ぼくが地元いわきで関わっている文化事業で、以前、大阪を中心に活動する観光家、陸奥賢さんを招いて「コミュニティ・ツーリズム」を学ぶセミナーを開催した。コミュニティ・ツーリズムとは、大量消費のマス・ツーリズムへの批判的な応対として誕生した地域主体のツーリズムだ。陸奥さんは、そのコミュニティ・ツーリズムにいち早く着目し、地元の大阪で「大阪あそ」など様々な町歩きを企画してきた。陸奥さんは、そのいわき市のセミナーで、コミュニティ・ツーリズムについてこう語っている。

「ガイドはそのまちの代表です。バスガイドは標準語で話しますが、コミュニティ・ツーリズムのガイドは方言がいい。そのままでいいんです。そして、ヒストリーではなくライフを語る。本に書かれてることはテープでもいいんですよ。そうではなくて、ガイドのパーソナリティやキャラクターを出して欲しい。まちは舞台、ガイドが主人公。例えば住吉大社で『神功皇后が・・・』というのがヒストリーですけども、『夏ここで蝉捕ってましたわ。』というのがライフ。まちとの関係、まちの人との関係を提示することで、まちが身近になってくる。コミュニティ・ツーリズムのガイドは生まれ育った町を案内します。他のエリアのガイドはできないんです」(http://iwaki-shiome.com/463/


 主役はガイド。ガイドそれぞれに違った人生がある。だから人の数だけツアーが生まれるのだし、同じコースを辿ったとしても、ガイドがなにを話すかで観光客の体験はガラリと変わってしまう。語られるのはその人の記憶のなかの出来事だから、観光客は話を聞きながら想像することしかできない。そして想像するうち、目の前には見えない光景が浮かんできたりする。まるで何かの劇を見ているかのように、かつての風景を思い浮かべてしまうわけだ。その人固有の物語が現実の風景と結びつき、想像力を掻き立てられてしまうこと。それがコミュニティ・ツーリズムの醍醐味なのだろう。

 では、ガイドや語り部がいなければ、想像力は喚起されないのだろうか。もちろんそうではない。なんらかの「手がかり」さえあれば、人は想像することができる。ぼくが訪ね歩いた高萩市の古い団地にも、中郷地区の炭鉱住宅跡にも、当時の面影を残す何かが残っていた。太陽光パネルで埋め尽くされてしまったとしても、なんらかの手がかりさえあれば、それが観光客の持つ想像のスイッチを押してくれる。だからこそぼくは前に寄稿した文章に、「人間にできることは忘れないでいることだ」と書いた。年月が経過すれば、いつかはガイドもいなくなる。後世の人たちが記憶に触れる何かしらの手がかりを、そこに残しておきたい。

【図4】高山には、1696年の津波で亡くなった犠牲者を供養する塔が建てられている
 今年の夏、福島県浜通りを舞台に「浜通り舞台芸術祭」が開催されることになっていた。企画者は柳美里さん。全線開通する常磐線の電車を劇場にする鉄道演劇などを敢行する予定だった。実行委員には、平田オリザさんや赤坂憲雄さんら、福島県内で文化活動に関わる著名人が名を連ねていた。それに関連したプレ企画として、柳さんの書店「フルハウス」では、国内の著名作家たちを招いたトークショーや朗読会も予定されていた(ぼくもそのラインナップに入っていた)。コロナウイルスの影響で二〇二一年に延期されることになってしまったが、予定通り開催されれば、ちょうど震災から十年である。浜通りの記憶の伝承と「フィクション」について考える大きなきっかけになることだろう。

 それでは、自治体の取り組みはどうだろう。今年の夏、双葉郡双葉町にアーカイブ施設「東日本大震災・原子力災害伝承館」がオープンする。初代館長には、長崎大学の高村昇教授の就任が決まった。高村さんは一九九三年に長崎大学医学部を卒業。二〇〇八年度から長崎大学大学院・医歯薬学総合研究科の教授を、二〇一三年からは長崎大学原爆後障害医療研究所の教授を務めた。原発事故直後の二〇一一年には、山下俊一さんとともに福島県の「放射線健康リスク管理アドバイザー」に就任した方である。高村さんは、放射線のリスク管理のプロかもしれないが、記憶の伝承の専門家ではない。かつて哲学者の梅原猛さんが「文明災」とまで語った福島第一原発事故。その記憶を広く伝えるための伝承館の館長に、放射線リスク管理の専門家が就くことになる。

 福島県立博物館は「東北学」で知られる民俗学者の赤坂憲雄さんが館長を退任し、前年度まで除染課長だった鈴木晶さんという県職員が新館長に就任した。福島県立美術館もまた、アメリカ美術の専門家だった早川博明館長が退任し、前年度まで福利課長だった長根由里子さんという職員が新館長に就任した。アーカイブを専門としない新しい「館長」たちは、福島に何を残すだろうか。

 被災地では、災害の記憶を次の世代にいかに引き継ぐかが盛んに議論されてきた。メディアもずっと「忘れない」と取材を続けてきた。毎年三月になると、被災地の声が届けられる。けれども、それらは「事実」ばかりでなかったか。想像力を喚起するような伝え方は、二の次とされてこなかったか。事実は「当事」の回路を作り出すけれど、「共事」の回路を作ることを難しくする。確かにこれまでは具体的な支援活動が必要だった。当事者を増やすことが重要だと考えるのも理解できる。「正しさ」が求められてきたのもそれゆえだろう。しかし今、当事の回路ばかりでは、被災地の記憶を伝え残すことはできない。とりわけ福島では、廃炉までに膨大な時間を要する。時間が経てば、今よりも「当事者の声」が重いものになっていくのだろう。しかしそれだけでは、きっと外部は失われていく。時間的空間的に、より外部へと伝えようとすればこそ、ぼくはフィクションがもたらす共事について考えずにはいられない。必要なのは、現実と虚構を往復する観光だ。
 手始めに「字」を観光することを勧めたい。自分の生まれ育った故郷や、思い入れのある土地を「字」とともに歩くのだ。そこにはきっと、現実の風景と虚構の風景が折り重なるように立ち現れるだろう。「字」は物語を蘇らせる。想像力を喚起し、見慣れた街頭を劇場にしてくれる。そして「南才ノ上」や「松之中」とあなたの歩く「字」とをつないでくれるはずだ。ぼくたちはそこで、現実と虚構とを行き来する観光客になれる。柳さんの『町の形見』は、その「字歩き」の最良の書になるだろう。ぼくの『新復興論』がお供になれたら、それ以上にうれしいことはない。

 いずれ、震災を直接経験した当事者はいなくなる。震災はすべて、それを直接経験していない「当事者ではない人」によって語られることになる。だからこそ改めて、フィクションの力を考えたい。フィクションについて考えること、それは「共事」について考えることである。


撮影=小松理虔(図1をのぞく)
 

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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