革命と住宅(9) 第5章 ブレジネフカ──ソ連団地の成熟と、社会主義住宅最後の実験(前篇)|本田晃子

シェア
初出:2022年3月28日刊行『ゲンロンβ71』
 フルシチョフはソ連の指導者の地位に就いて間もなく、長らく等閑視されてきた一般労働者向けの集合住宅の建設に着手した。掘っ立て小屋のようなバラックや超過密のコムナルカなど、場合によっては革命前よりも悲惨な環境で生活を強いられていたソ連の人びとは、先を争うようにして鉄筋コンクリート造の積層型集合住宅「フルシチョーフカ」へと引越した。もちろん、「安く、早く、大量に」をスローガンに建設されたこれらのソ連型団地は、多くの問題を抱えていた。部屋の狭さやインフラの脆弱さ、施工の不完全さから、保育園や幼稚園の絶対的な不足まで、人びとは引越した先の新居で、さまざまな困難に直面することになった。だがそれでも、これら家族単位の住宅は熱狂的に受け入れられた。団地への引越しは、常時隣人の視線にさらされ、あらゆる生活音や会話が筒抜けになる生活からの脱出を意味したからだ。

 と同時に、これら団地は、ロシア史上これまで経験されたことがないほど純化された家族の空間にもなった。革命前のロシアの伝統的な住まいでは、労働と生活の空間の境界は不分明であり、親族のみならず労働を共にする雑多な人びとがひとつ屋根の下で共に暮らしていた。革命後のロシアの都市部では、職住分離はある程度進んだものの、コムナルカやバラックでは相変わらず他人同士が密集して暮らしていた。しかしフルシチョーフカでは生活と労働は完全に分離され、夫婦とその子ども──異性愛と生殖を前提とする核家族──以外の人びとはそこから排除された。ソ連では公共化され社会によって担われるものとされた家事や育児といった家族の私的機能もまた、フルシチョーフカでは家庭に還元され、多くの場合、女性たちの無償労働の対象となった。

 しかし、このような社会から隔てられた閉鎖空間としての「家」こそ、まさにエンゲルスやチェルヌィシェフスキーらが廃絶しようとした当のものではなかったか。実際、核家族を念頭に標準化された団地の設計や、消費財に囲まれた人びとのライフスタイルは、冷戦下のイデオロギー対立にもかかわらず、西側諸国のそれとあまりにも似通っていた。そのことに気づいた一部の建築家たちは狼狽した。それまで人為的に忘却されていた1920年代のアヴァンギャルド建築が「再発見」されたことも、彼らを動揺させた。皮肉にも、フルシチョーフカの普及によって危機的な住宅難が改善されはじめたその時に、ソ連の住宅は自らのアイデンティティの問題に再び直面したのである。こうして1960年代から70年代にかけてのソ連では、社会主義的な住まいとはいかなるものであるべきかを問う、最後の住宅実験が開始された。

1.団地の巨大化と多様化


 スターリン体制を批判し、大粛清の犠牲者の名誉回復を行い、西側諸国との交流を再開して、一時的な「雪解け」をもたらしたフルシチョフだったが、同時にその独断的なふるまいは他の党幹部らの反感を招きもした。その結果、彼は党内の反フルシチョフ派の陰謀によって、1964年秋に突然失脚する。フルシチョフに代わって書記長の座に就いたレオニード・ブレジネフは、フルシチョフ時代の施策を批判し、国家による統制と権威主義的な体制を再強化した。しかしその反面、フルシチョフによって開始された住宅の大量供給政策は、基本的には維持された。集合住宅の設計の規格化・工業化は一層促進され、ソ連各地にブレジネフの団地「ブレジネフカ брежневка」が出現した。そして1966年から1970年の間に、およそ4400万の人びとがこれらの新居へ移り住んだ★1

 初期のフルシチョーフカでは、階段でアクセスできる上限の五階建てが主流を占めていたが、ブレジネフカはエレベーターが設置されたことで九階建て以上に高層化した。またフルシチョーフカの外観は、バルコニーの配列などに多少の個性はあるとはいえ、ほとんどが長方形の画一的な姿を呈していた。対してブレジネフ時代になると、部材の規格化が進んだことで逆にそれらのより自由な組み合わせが可能となり、形態のバリエーションが増加した。特に1970年に住宅・公共建築に関する学術調査・計画中央研究所(ЦНИИЭП жилища)のボリス・ルバネンコによって統一カタログが作成されると、規格化された部材を用いた多様なフロア・プランをもつ住宅や、スターハウス型【図1】、円筒形型【図2】などのより複雑な形態をもつ住宅が出現した★2
 
【図1】モスクワ近郊トロパリョーヴォのスターハウス型住宅からなる団地

 
【図2】モスクワ近郊マトヴェーエフ小地区の円形住宅

 
 外壁にもさまざまな工夫が凝らされた。異なった色やテクスチャをもつ素材を利用することから始まって、モザイク・タイルの巨大な壁画が作成されることもあった。特に中央アジアの元イスラム圏の国々では、モスクの装飾に用いられてきた伝統的なモザイク・タイルの技法によって、しかし宗教的なモチーフではなく社会主義に関わるイメージが集合住宅の側壁に描き出された。他にも夏の日差しの強い南方地域では、多種多様なブリーズソレイユ(日よけ)が窓やバルコニー、外廊下などに取り入れられ、装飾的でエキゾティックなブレジネフカを作り上げた。

 このようにブレジネフ時代には団地の多様化が進んだが、それでもその画一性は、西側メディアの反ソ・プロパガンダのみならず、ソ連国内メディアにおいてもしばしば風刺や批判の的にされた。なかでも住宅の規格化を物語のプロットにまで組み込んだのが、エリダール・リャザーノフ監督の映画『運命の皮肉、あるいはよい湯気を! Ирония судьбы, или С лёгким паром!』(1976年)である。

 物語は、モスクワの団地に住む青年ジェーニャが、大晦日の夜、男友達とサウナ(いわゆるバーニャ)で痛飲して泥酔した挙句、なぜか飛行機に乗ってレニングラード(サンクトペテルブルク)まで行ってしまい、見知らぬ女性ナージャの住む団地の1室にそれと気づかず潜りこんでしまうことから始まる。あらすじだけ紹介すると無茶苦茶に聞こえるかもしれないが、同作はロシアでは毎年大晦日にTV放映されており、ロシア人であれば知らない人はまずいない国民的ラブコメ映画である。そしてこの喜劇──まさに運命の皮肉──のキモとなるのが、極度に規格化された都市と住宅の存在なのだ。

 レニングラードに到着した酔っ払いのジェーニャは、まだ自分はモスクワにいるものと思い込んだまま、タクシーに乗車し、運転手に自宅の住所を告げる。しかし、彼の住所「第三建設者通り(3-я улица Строителей)」は、「レーニン通り」や」「革命通り」などと同じく、ソ連の都市ではよくある名前で、もちろん彼が行きたかったのはモスクワの「第三建設者通り」だったわけだが、運転手は何の疑問もなくレニングラードの「第三建設者通り」に彼を連れて行く。しかもジェーニャが到着した先の集合住宅の外観やエレベーターの位置は、モスクワの彼の住まいのそれとよく似ていた。そのため、泥酔状態の彼は何の疑問も抱かず建物の中に入っていく。そして自分の住まい──実際にはナージャの住まい──の前でポケットから鍵を取り出し、ドアを開けて中に入る。もちろんジェーニャの持っている鍵はモスクワの彼の自宅のものなのだが、当時のソ連の団地の鍵のバリエーションは限られていたために(規格化の弊害である)、偶然にもドアは開いてしまう。酔いと尿意でほとんど前後不覚の彼は、トイレに直行した後、薄暗い部屋の中でそのまま意識を失う。

本田晃子

1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
    コメントを残すにはログインしてください。