当事者から共事者へ(2) 共事をつくる|小松理虔

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初出:2019年11月22日刊行『ゲンロンβ43』

 10月12日から13日未明にかけて東日本を襲った台風19号。ぼくの暮らすいわき市でも、夏井川、好間川、大久川など主要な河川が氾濫し、内陸部や北部沿岸地区が甚大な被害を受けた。いわき市最大の町、平地区が被災したこともあり、市内だけで9名の犠牲を出してしまった。床上浸水した世帯は数えきれないほどで、この文章を書いている今なお、市内のおよそ3万を超える世帯で断水が続いている。歴史に残る大水害だ。  復旧のための様々な取り組みも始まっている。ぼくも何度か、被災した住宅の泥かきや掃除などを手伝った。住居の隅々にまで入り込んだ泥との格闘は過酷だ。一人暮らし世帯の高齢者の住宅などは、家財道具を家の外に出すことすらままならず、半ば放置されているような家も目にした。被災した家財道具が公園にうず高く積まれ、晴れた日には泥臭い土埃が舞う。空には報道ヘリが旋回し、路上には緑色の自衛隊車両が走り去る。そしてそのかたわらで、地元の高齢の方が呆然とした表情で立ち尽くしている。いやでも東日本大震災を思い出す光景だ。ボランティアセンターも立ち上げられたが、とにかく人手が足りていない。ひとりでも多くの人たちにいわきに足を運んでもらい、1時間でも2時間でもいいから、被災地の支援に力を貸してもらいたいと願っている。  一方で、ぼくの自宅のある小名浜地区は、同じいわき市内の被災地からは距離にして10キロ以上離れており、氾濫した河川もなかったため被災はしていない。水道も無事に使うことができている。フェイスブックに毎日何度も災害情報を投稿し続け、支援を呼びかける友人たちを尻目に、ぼくは普段通りの仕事をし、休みの日には子どもを連れて遊び場をめぐり、被災地では使えない水をじゃんじゃか使って車を洗い、うまい飯をたらふく食べることができる。被災しなかったことが申し訳ないくらいだ。

 

 かつて、災害が「ユートピア」という言葉で語られた時期があった。被災した住民が団結し、自治が生まれ、助け合いの心が育まれて、皆が、そのなんとも言えない独特の高揚感に包まれた。確かに、被災の状況は様々であり、原発事故を機に地域はバラバラになってしまったけれど、震災直後のアドレナリンが過剰に分泌された時期の独特の一体感を、ぼくは今でも忘れることができない。ところが今回の水害では発生当初から殺伐とした空気があった。とある自治体では、家を持たない人たちが避難所から排除された。SNSでは、その対応が批判を浴びつつも、一方では「ホンネ」という言葉で支持する声が拡散した。また別の自治体のタワーマンションの浸水に対しては、「ざまあ」という声がぶつけられ、投稿に多くのRTがついた。八ッ場ダムをめぐる議論は、事実や歴史、データはほとんど無視され、党派的な声だけが大きくなっている。  東日本大震災後の8年7ヶ月はまさにSNSの時代であった。匿名性の高いツイッターは、確かに速報性があり、支援を求める声も拡散しやすい。災害時にはテレビでニュースを見るよりツイッターのほうが速く情報が集まるというのもうなずける。けれど、災害が起きた瞬間から、悪意のある発言やデマが無責任に拡散され、人間の凶暴さや醜さを目にしてしまうようになった。ユートピアを生み出しもした災害は、今や、圧倒的にディストピアの光景を見せている。ツイッターを形容する「玉石混淆」などという言葉も、もう空々しく聞こえてしまう。  被災地の外では、災害は「ネタ」になる。だから、被災地の中では、そのネタを災害から引き剥がすように「正しい支援」や「正しい発信」が求められるようになる。SNSでは、最初期は被害の状況を伝える声が、そして復旧が始まれば、支援を行った人のレポートや、支援物資などを求める投稿などが増えてくる。支援を必要とする人たちと外をつなげようという試みなので、重要な投稿であるのは間違いない。しかしその一方で、同じいわき市内の、被災地ではない地区に暮らす人たちの日常的な投稿はほとんど見られなくなった。ぼくですら、子どもを連れてどこそこに遊びに行ったなどという気軽な投稿は慎まなければと思っているくらいだ。  では実名で登録するフェイスブックはというと、実名であるがゆえに余裕がなく、猛然と現実に立ち向かっていく人の姿を可視化するが、「情報拡散に手を貸してくれない人」や「災害後に投稿をしなくなってしまった人」をもあぶり出してしまうように感じられた。こうした状況がますます「こんなことを投稿したら不謹慎なのではないか」という自主規制を生み出し、タイムラインは災害情報だけで埋まっていく。福島県では、震災後にフェイスブックのユーザーが爆発的に増え、地域のあらゆるプレイヤーが実名のアカウントを持っている。実名を背負っているからこそ、ボランティアに参加したらそれをレポートしたくなる。支援を求める声を拡散せねばと思う。しかしその一方で、自主規制や忖度、遠慮や逡巡を生み出してしまう。ツイッターとフェイスブックの中間にあるようなSNSがあったらよかったのかもしれない。あるいは、ボランティア頼みの災害復旧のあり方そのものを問い直す時期に来ているのかもしれない。

 

 それぞれができることをしよう。もっともだと思う。けれど、それぞれの「できること」が可視化され、他の誰かと比較されてしまうだけでなく、災害時に何を投稿しなかったのかすら可視化されてしまうSNSの時代、自分の「それぞれ」を堂々と表明できる人がどれだけいるだろうか。没頭できる現場を持たない人たちは、消費されるネタに関わりたくないと思えばこそ「正しい支援」や「正しい発信」を考える。すると今度は、その正しさをめぐって緊張が生まれてしまう。  ぼくは今回の大水害では「非当事者」だ。とはいえ、被災地に関心がないわけではないし、同じいわき市に暮らす住民でもある。娘の幼稚園が断水で休園しているので、仕事をしていても娘を見なければいけないという程度には被災していると言えるのかもしれない。間接的には復旧復興に関わる仕事もしている。そのような不安定な立場だからこそ、今回の大水害では東日本大震災以上に、当事者と非当事者の「あわい」について、この連載のタイトルに引きつけて考えれば、「共事」について考えずにはいられなくなった。  今回の連載のテーマは「共事のつくりかた」である。もともとこのテーマでテキストを書くつもりだったし、担当編集者にもそう伝えていた。文章のほとんどは、水害前に書いたものだ。今こうして大水害を経験して見返すと、いかにも貧弱に見えるところもある。ぼくの反応がナイーブすぎるのは自覚しているし、黙ってボランティアに行くか、情報の拡散に手を貸すべきなのだろう(実際そうもしている)。けれど、その貧弱さには、大きな課題を持つ領域の「外側」に共鳴を起こす波のような小さな力があるのではないかとも思えたし、このタイミングで感じた違和感を書き残しておくこともまた、当事者と非当事者の「あわい」にいる人間としての共事的行為かもしれないと思い、このような「まえがき」を残した次第だ。

 

 長くなったが本題に移ろう。様々な領域で課題が生まれ、その課題が深刻さを増し、様々な知を動員しなければならないのに、あちらこちらで炎上が生まれ、その一方で強い語りにくさが増大する時代、私たちは、ではどのように「共事」をつくり出せばよいのだろうか。

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
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