世界は五反田から始まった(11) ゆみちゃんとパラシュート|星野博美

初出:2019年11月22日刊行『ゲンロンβ43』

 朝起きて1階に降りると、食卓の上にゲンロンカフェのチラシが置いてあることが最近あり、そのたびにギョッとする。2階の私の机の上にあったら何ら不思議に感じないのに、両親の生活領域である1階にあるだけで強烈な違和感を居間全体に放出する。

 置いたのは父だ。ゲンロンカフェの入ったビルの向かい側の1ブロック先にあるビル内の床屋に、父は月に一度通っている。そして床屋で整髪を終えるたびに道路を渡り、ラックに入ったゲンロンカフェのチラシをもらってくるのだ。

 私の生活圏がほぼ戸越銀座に偏向しているのに対し、父のそれはだいぶ五反田に引っ張られている。月一度の整髪然り、品川区が高齢者のために主催する週に一度の麻雀教室も、足繁く通う銀行も、そして「俺の庭」と呼ぶほど大好きなNTT東日本関東病院も五反田、といった具合。

 やはり五反田生まれだから、引き寄せられるのだな、と納得しようとした瞬間、思い出した。

 自分が五反田生まれであることを、父は割と最近まで知らなかったのだ。それを発見したのは私で、祖父が書き残した手記を読んだからだった。3歳の時点(昭和11年)で戸越銀座に引っ越したため、父に五反田暮らしの記憶は残っていなかった。古い戸籍謄本で、当時の住所を突き止めたのは私だった。

 それだけでなく、丁稚時代の祖父が、大家の妻が同じ岩和田出身で、店子の過半数が岩和田出身である五反田駅近くの下宿に住んでいたことや、祖父が独立して祖母と祝言をあげた最初の家が五反田の下大崎にあったことなども、父に教えたのは私だった。そう考えると、父が無意識のうちに五反田に引かれている現実が、逆に興味深くもある。

 最近うちではこういう逆転現象が多発しており、父の知らない家族の物語を私が語って聞かせるという、なんとも不思議なことになっている。それがエスカレートすると、祖父の両親(ともに慶応年間の生まれ)が大恋愛の末、駆け落ち同然で結婚したことや、日清戦争の頃、息子を徴兵されたくない祖父の祖父が、長男を除いた息子3人を養子に出してしまったことなど、祖父が生まれる前の昔話まで語ったりする。時々、自分が何歳なのかわからなくなり、一族の長老婆さんのような気がしてくる。

 それを可能にしたのが、A4で25枚に過ぎない、祖父が書き残した手記なのである。この25枚は、祖父がもう少し長く生きることができたら聞かせてもらえるはずだった、昔話なのだった。

カール工場

 焼け野原になった場合の家訓を書いた以上、そろそろ戸越銀座の家を焼かなければならない。そう思いつつ、いざ焼こうとするとなんだか惜しくなり、焼きたくなくなった。なので、大五反田炎上はまだ少し先の話になる、とここで予告しておこう。

 今回は大工場に目を向けたい。

 本連載ですでに詳述したが、大五反田の工業地帯としての発展は第1次世界大戦(1914~1918年)を契機としており、目黒川沿いに大工場が林立するようになり、その下請けを行う町工場が付近に増殖していった。奇しくも、これとほぼ足並が揃ったのが祖父の人生だ。遠い海の向こうでロシア革命が起きる前年の1916年に外房の岩和田から上京、大五反田で修業、昭和恐慌の前年に独立、満州事変の前年に戸越銀座へ移動、戦中は軍需工場の下請けをして経営安定、そして焼け野原、という道のりをたどった。

 しかしそれはあくまでも、一応文筆業に従事し、大五反田に思い入れの強すぎる自分が、ようやく最近になって至った歴史認識である。幼少期を過ごした昭和40年代に、そんな客観視ができるわけはなかった。私の家族にもそんなものはなかっただろう。

 私はまるで大五反田番長のように、したり顔でいろんなことを語っているが、大五反田を書くにあたって大切にしたいのは、「知っている」ではなく、むしろ、「いかに知らなかったか」である。

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1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。

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