アンビバレント・ヒップホップ(4)サウンドトラック・フォー・トリッパー|吉田雅史

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初出:2016年07月08日刊行『ゲンロンβ4』
 本連載では、これまで様々なビートについて考察を進めてきた。それらは、ラップ・ミュージックを中心に据えた、ビートを巡る議論であった。しかし前回の連載で、私たちは、ヒップホップの地平には、それ自体で自律し言葉を必要としない類のビートたちも存在することを確認した。今回改めて着目したいのは、なぜラップ=言葉を必要としないビートが誕生し、それらが需要されるのかという問いである。

1. 接続する音楽/切断する言葉


 東浩紀は、宇川直宏、黒瀬陽平との鼎談で「音楽は人々を接続するもので、言葉は人々を切断するもの」であると指摘している★1

 音楽の接続性の一面については、前回の連載における「ビートの公共性」を巡る議論で考察した。DJを介して聴衆がグルーブを共有するとき、そこには人々を接続するという音楽の特性が明確に表れている。そしてここで考えてみたいのは、音楽の中でも特に、ラップ・ミュージックについてである。それは接続性を有する音楽でありながら、同時に「過剰に」言葉を持っている。勿論、ポップスやロックのような歌モノも、歌詞=言葉を持っている。しかし歌モノの歌詞は一般的にメロディの音数に制約を受けるため、比較的文字数は少なく、より多くの人々が共感できるような抽象的な詞を持つ楽曲も少なくない。一方でラップ・ミュージックにおいては、言葉は過剰に供給される。単純にその文字数は、多い。

 歌モノの愉しみの1つとして挙げられるのは、その歌詞に共感し、歌われている登場人物に感情移入することだろう。だとすれば、歌詞が長ければ長いほど、同化したい対象の詳細が語られれば語られるほど、その対象と自身の状況にズレが生まれる可能性もまた高くなる。 多くを尽くすほど、その書き手とリスナーを切断するのもまた言葉である。しかしその齟齬を脳内で修正しつつ「これは私のための歌である」と解釈するのも無論リスナーの自由である。

 では、ラップ・ミュージックからラップ=言葉を取り払ったらどうか。12インチのB面を根城とする、インストバージョン。言葉を持たないインストの音楽についても、そこに個人的な体験を重ね合わせたり、感情移入することは可能だろう。この場合に聴衆は、音楽のメロディ、リズムや音質、それらの組み合わせが齎す、ときにメランコリックで、ときに暖かく、ときに暴力的で、ときに溌剌としたイメージそのものに、思うがままに個人的な物語を重ね合わせ、感情移入するといった手続きを踏むことになる。音楽は、それを共有する人々の間を接続するだけでなく、私たち個人の経験=物語とそれに結びつく感情とも接続するのだ。
 しかし言葉の意味と響き、フローを最大限に強調することを眼目にチューンナップされたラップ・ミュージック用のビート群は、個人の物語を重ね合わせる器にはそぐわない側面がある。これらのビートは基本的に何れもシンプルな反復をベースとし、全体としてフラットでダイナミズムに乏しい。「曲展開」と呼べるのは、原則音数が多めで派手になる「サビ=フック」のパートと、比較的抑え気味の音像になる「ヴァース(歌詞の1番、2番などの部分)」の2つのパート間の行き来のみである。つまり、楽曲としての凹凸が少ないのだ。

 私たちは、喜怒哀楽を伴う個人的な経験の伴奏としての音楽に、喜怒哀楽のエモーションを増幅させるような、ある種の劇的さを求めはしないだろうか。出会いの喜び、離別の悲しみ、未来への希望、過去への郷愁、不条理への怒り、自己への嫌悪など、これらの出来事=物語とそれに伴う感情に結びつき支える音楽には、その感情の高まりに併走するような音楽的展開=物語が求められる。

 であるならば、個人の経験に接続する音楽としてのヒップホップのビートに求められるのは、反復ベースのビートに、凹凸=ダイナミクス=物語を付与すること。このアンビバレントな欲望が、言葉は持たないが物語を持つ、インストヒップホップの潮流に結実する。

 言葉を持たないダンスミュージックに物語を希求する人々の態度は新奇なものではなく、DJたちはその登場時から、物語の紡ぎ手としてそこにいた。聴衆たちが夜を徹してダンスフロアーで追い求める、現実からの逃亡劇。それに寄り添い深夜から明け方まで続くロングミックスは、いつも聴衆たちを互いに繋ぎ、鼓舞するサウンドトラックだった。ディスコミュージックからヒップホップ黎明期のアフリカ・バンバータの『Death Mix』(1983年)へ。次々と繰り出されるブレイクビーツの数々は、原曲から切断され互いに接続されることで見事な凹凸模様を成している。

 そして1990年代のイギリスでその延長線上に生まれ落ちた、トリップ・ホップやアブストラクト・ヒップホップと名付けられたビート群★2。それらのラップから自立したインスト・ビートは、従来のインストのクラブミュージックの主流であったテクノなど4つ打ちのビートと比較すると、BPMが遅いために、ダウンビート、ダウナー系と呼称されることもあった。しかしクラブでの聴衆の盛り上がりは、その呼称とは裏腹に激しさを増した。この理由の1つは後で見るように、トリップ・ホップ/アブストラクト・ヒップホップが、激しい盛り上がりを演出する劇的さ=凹凸を備えた音楽であったからと言えよう。

2. 都市へ連れ出されるビートたち


 前回指摘したように、インストバージョンのビートは、ある種の公共性を纏った形で、MCやダンサーたちのフリースタイルを下支えする役割を担ってきた。そしてそれらを鑑賞するリスナーの環境も、伝統的にはブロックパーティやブーンボックスのような公共性を担保したものが散見され、カーステレオの利用のされ方にもそれは引き継がれていた。そしてカーステレオやウォークマンによる聴取空間を獲得したビートたちは、自宅の部屋やクラブから外に連れ出されることになる。

 そしてトリップ・ホップ/アブストラクト・ヒップホップのビート群は、前述のようなクラブでの盛り上がり方とはまた別に、外に連れ出されるに相応しい音楽であると言えよう。しかしその理由を議論する前に、まずここで精察したいのは、そもそも外に連れ出されるのに相応しい音楽(ジャンル)とは何かという問いである。勿論、ありとあらゆる音楽を外で聴きながら移動することを可能にしたのがウォークマンの発明であり、そこにジャンルの縛りなど存在しない。しかし、にもかかわらず、ある特定のジャンルが屋外で聴くのに相応しい、あるいは需要される、というようなことがありうるのだろうか。

 細川周平は、都市におけるウォークマンの機能と効用について考察した『ウォークマンの修辞学』で次のように述べている。


 ウォークマンの作り出しうる「均質空間」は、都市的なるものにおいて、都市を忘却することで成立つ一方、都市なしでは当然存在しえないアンビヴァレントな装置である。表象としてのウォークマンのエアポケット的現前は、聴き手から都市の音(例えば車の音、駅のアナウンス)を排除することと、聴き手に都市的なるものの音(例えばフュージョン音楽)を導入することの二つの要素の絡み合いによって支えられている。★3
 細川によれば、ウォークマンを用いて、都市を背景にヘッドフォンで音楽を鑑賞するとき、そこにはエアポケット的な「均質空間」が立ち現れるのだという。つまり本来はその場所に紐付くはずの環境音は無化され(近年ノイズキャンセル型のヘッドフォンの登場によりこの傾向は高まっているだろう)、フラットな聴取空間が供給される。しかしそのフラットな空間で聴取される音楽は、都市に相応しい音楽、都市のサウンドトラックであるのだから、ウォークマンは都市に対して「アンビヴァレントな装置」なのだと細川は指摘する。

 都市のサウンドトラックとなる音楽として、当時細川はフュージョンを挙げている。マイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』やハービー・ハンコックの『ヘッド・ハンターズ』、リターン・トゥ・フォーエヴァー、ウェザー・リポートなどの先進性を持つ例と、彼らに続く画一化されたフォロワーたちの音楽。細川は、これらがウォークマン向きの音楽である理由として「一つの『シリーズ』の一員となることに満足し、それになりきろうとする音楽」であり「差異ではなく反復(余剰)の世界」であると述べている。

 細川の愛聴するセシル・テイラーなどのフリージャズは、集中力を強要する音楽であり、その繊細なダイナミズムは、ヘッドフォンを透けてやって来る都市のバックグラウンドノイズにかき消されてしまう。そこで彼が都市に相応しい音楽と結論付けたのが、フュージョン、ニューミュージックやAORなどの、一定の型を持つ商業ベースの反復の音楽だった。

 この結論は一定の説得力を持つものの、彼が言及しているフュージョンやAORは、商業的であるがゆえ、ウォークマンが登場した1980年代当時の流行に応答する「アーバン」や「スムース」などの言葉で形容される音像を持っていた。そのような音像を形作る手法が一種のクリシェに陥ったため、ジャンル全体が画一化されていたことは事実であろう。しかし端的に、それらが「都市的なるものの音」に聴こえたのは、その音像の印象が、都市に相応しいと思わせる引力を有していたからではないだろうか。つまり、これらの音楽は、当時、如何にも都市に似合いそうな佇まいをしていた。単にそれが、モードであった。
 しかし本論においては、もっと別の角度から相応しい音楽について考えてみたいのだ。ウォークマンにせよ、カーステレオにせよ、音楽を屋外に連れ出す聴取環境は、移動性をその本質としている。つまり、単に都市というトポスに相応か否かを検討するのではなく、この移動性そのものに着目すること。移動の最中に聴く音楽について、移動のサウンドトラックについて、考えてみること。


 過去をカットアップして、未来を発見するんだ。(ウィリアム・バロウズ)★4



 風景というものは、いつもどこか似かよってみえる。人間は、どこまで旅しても新しい風景を発見できないのではないか。いつもどこかでみたことのある風景であり、あたかも自画像をみるような、一面の似かよった風景の連続である。[中略]”旅”あるいは”旅に出る”このような夢想がなければ、人間は生きてゆけぬ存在であるらしい、私はそんな気がしている。(吉増剛造『gozoノート2 航海日誌』)★5


 1996年、歴史的なアルバムがリリースされた。カリフォルニア州出身のDJ/ビートメイカー、DJシャドウの『Endtroducing…..』はトリップ・ホップ/アブストラクト・ヒップホップの記念碑的作品である★6。いくつかの収録曲においては、レコードからのサンプリングにより、ドラマーのインタビューでの発言や、サイケデリック・ミュージックのスピリチュアルな語りのパートなどが含まれているものの、ほぼ全編がインストのビートで構成される本アルバムは、全ての音がレコードからのサンプリングとスクラッチだけで制作された世界で初めてのアルバムとして、ギネスブックにも登録されている。

「トリップ」ホップという呼称は、ドラッグのトリップ体験を想起させるとともに、端的に、旅の供に連れ歩く音楽、あるいは架空の旅に連れ出してくれる音楽の機能を兼ね備えていることを示している。DJシャドウことジョッシュ・デイヴィス本人は、インタビューに答えて『Endtroducing…..』には「リスナーが旅に出発するような感覚がある」と発言している★7
 ヒップホップの世界においては、その黎明期から、インストのビートには力点が置かれてきた。DJたちは従来の楽曲の「間奏」をレコード2枚使いにより延々と引き伸ばしたのだから。そしてそのDJ的な選球眼によるインストパートの組み合わせの妙が、ラップ曲において開花する例もあった。『Endtroducing…..』の約10年前、1987年にリリースされたコールドカットによるエリックB.&ラキム「Paid In Full」のリミックス曲「Paid In Full (Seven Minutes of Madness)」は、1950年代の販促用レコードからサンプリングされた「This is a journey into sound/これは音を巡る旅だ」というナレーションで幕を開ける。文字通り7分に渡る同曲は、ラキムのヴァースを中心とするものの、数多くの楽曲からのサンプリングやスクラッチで満たされる長いインストパートを擁する。

 何よりも印象的なのは、ソウル・サーチャーズの曲からサンプリングしたブレイクビーツとデニス・エドワーズの曲のベースラインの上に乗る、イスラエル出身の女性ヴォーカリスト、オフラ・ハザによる非常にエスニックなヘブライ語のヴォーカルフレーズだ。まず前提として、リリース時期もコンテクストも全く異なる複数のフレーズが重なることで、時間と場所の特定を無化するような効果が生じている。そして本曲については、より端的に、異国情緒溢れるヴォーカルの存在が「旅」を想起させるものとなっている。しかしヘブライ語で歌われているフレーズの意味するところを、非ヘブライ語話者の私たちは知ることができない。私たちは彼女の歌に彩られたビートを聴きながら、言葉による切断なしに、自由に想像力を駆使することができる。

 このような、インスト・ビートの可能性を極限まで押し進めたら、その果てには何が見えるだろうか。そのような疑問に対する回答を、DJシャドウの『Endtroducing…..』が提出したのだ。

 レコードからのサンプリングのみで構築された本作。それらの「ネタ」たちは、DJシャドウが通ったレコード屋の50万枚の在庫の中から、彼が邂逅を果たしたものだという。そして本作で用いられているサンプラーは、92年頃にMCのパリスの車で連れて行ってもらったサンフランシスコのギターセンター★8で購入したMPC60と、後年手にするMPC3000である。結果として本アルバムは、全編にわたってローファイの魅力を宿している。

 オープニングに続く2曲目「Building Steam With A Grain Of Salt」を聴いてみよう。まずは「Producing…..」という男性の声の断片の後に、メインのネタであるピアノフレーズのループが開始される。そして楽曲の展開に合わせて、数々のサンプリングされたループが現れ、消えて、そしてまた現れる。それぞれの「ネタ」を初出順に記すと次のようになる。

(1)0分00秒:声ネタ「Producing…..」
(2)0分01秒:ピアノ(メインのアルペジオ)
(3)0分12秒:声ネタ(ドラマーの語り)
(4)0分24秒:ピアノ(低いC音)
(5)0分48秒:ブレイクビーツ
(6)1分11秒:女性コーラス(2のピアノと同じレコードの別の箇所)
(7)1分11秒:ベース
(8)2分00秒:声ネタ(女性の語り、背後の音楽含む)
(9)3分08秒:ギター(ワウのカッティング)
(10)3分42秒:エレクトリック・ピアノ(アルペジオ)
(11)4分40秒:SE
(12)4分43秒:女性ヴォーカル+ハープ(両者とも1つのネタ)
(13)5分28秒:ストリングス
 
 これ以前のラップ・ミュージックを支えるビートの構成は、ブレイクビーツ、ベースライン、上モノ(ドラムやベースのリズム隊の上に被せられるメインのネタ)、ホーンなどの飛ばし系、のように多くても4〜5ほどのフレーズが重ねられるもので、その抜き差しも比較的シンプルであった。しかし本曲の(13)のストリングスが導入されるラストのパートにおいては、ピアノ、ブレイクビーツ、女性コーラス、ベース、ギター、ハープ、ストリングスの最大7つのパートが見事に重なり合う★9。一方で、途中にはドラム、ギターとベース、ピアノのパートのソロとなる抜きの展開も織り込まれている。反復を基底としながらも、このような抜き差しのバリエーションの多様さと劇的なダイナミズムが、個人的な物語を重ね合わせる凹凸となる。  このダイナミズムは、彼が選択するネタの特殊性により際立たされている。DJシャドウが用いるネタの数々は、従来のヒップホップで参照されることの多かったソウル、ジャズ、ファンクなどに加え、ときにサイケデリックで、ときにスピリチュアリティを湛えたロックや、欧米圏以外のアーティストたちのレコード、レアな7インチレコードのファンクなどであった。つまりそれらのネタ選びはコールドカットの精神性を引き継ぐと同時に、他の多くのビートメイカーたちの射程からはみ出すようなものであった。
 DJシャドウの言う「旅」というコンセプトは、音を媒介にしてリスナーへ接続される。DJシャドウが、積み上げられた埃まみれの50万枚のレコードをディグしながら、歩いてきた旅路。演奏が録音された時と場所、そしてそのレコードの過去のオーナーたちが生きた時と場所も異なるために、場所と時間を超えたレコード群を巡る旅は、サンプリングされている音たちの重なりを通じて否応無しにリスナーにも共有される。この途方もないプロセスに立ち昇る郷愁。自身の出自を内包する音だけで構築された、このアルバムの楽曲群は、予め「旅」を孕んでいる。

 私たちはDJシャドウの差し出す「旅」の旅程に従い、次々と時間と空間を超えた音の風景を目撃する。しかしこのアルバムを形作っている全ての音は、DJシャドウによって既に生きられた過去であり、既に目撃された風景である。バロウズの言葉通り、50万枚のレコードの中から、過去を切り刻むことで、未来が形作られているのだ。しかしそもそも、時間芸術である音楽を聴くこととは、少しずつ未来方向に流れゆく時間軸に沿って、音の並びを順々に味わうことである。つまりそれは、少しずつ、1音ずつの未来を聴かされる体験でもある。

 私たちが散歩やドライブをするとき、それは「移動」の経験であり、移動中のどこか固定されない視座を持つことにより、過去の事象を見直したり、過去の似通った風景を巡覧することで、あるいは未来の出来事に思いを馳せたりするのではないか。ウォークマンやカーステレオにより、移動中の私たちと併走する音楽もまた、時間や場所を固定されないものであることが望ましい。つまり、時間と空間を移動してきたサンプリングソースによって構築されているビート群こそが、移動のサウンドトラックに相応しいのだ。

 整理してみよう。私たちは、一方で言葉のあるラップ・ミュージックを求める。そこで欲望されるのは、描かれている対象への共感であり、あるいは作者にリスナー自身の物語を代弁して欲しいという願いである。しかし本来切断の機能をも果たす言葉は、ラップのように数多く動員されるほどに、リスナーのそのような欲望を断ち切ってしまう。そこで私たちは他方、言葉のないインスト・ビート=音楽をも求める。そこではラップ=言葉は取り払われ、しかし凹凸を備えたビートこそが、私たちの個人的な物語に感情に接続する。つまり、私たちは言葉に縛られたいからこそ言葉のある音楽(=ラップ・ミュージック)を求め、しかしその言葉から自由になりたいからこそ言葉のない音楽(=インスト・ビート)を求める。そのようなアンビバレントな欲望こそが、ヒップホップにおいてラップ・ミュージックとインスト・ビートが両立する一因となっているのだ。そしてトリップ・ホップに代表される、ある種のインスト・ビートの特異性の1つは、それが移動のサウンドトラック足り得ることだった。

3. ビートを手書きすること


 このようなサンプリングベースのインスト・ビートには、もうひとつ大きな特徴がある。もう一度「Building Steam With A Grain Of Salt」の冒頭メインのネタであるピアノフレーズを注意深く聴いてみよう。その背後には、「シャー」というホワイトノイズと、「プチプチ」というレコード盤に起因するスクラッチノイズ、つまり2種類のノイズが溶け合っている。これらのノイズは、このピアノフレーズが実在する/したレコード盤からサンプリングされていることを示している。注意深く聴けば、この2小節でループされているフレーズは、同じ箇所にスクラッチノイズが入っているのが分かる。

 そしてこの「プチッ、プチッ」と鳴るノイズに耳を傾けていると、このノイズ共々サンプリングして形作られるビートを「肉筆のビート」と呼んでみたい誘惑に駆られるのだ。レコードの溝とそこに溜まる埃、ダイヤモンドの針先によって発生する「プチッ」という音を聴いていると、書家の石川九楊が「書き手が手に握った尖筆の尖端と被書字物である紙とのあいだの接触と摩擦と離脱の劇(ドラマ)」と形容した「筆蝕」という言葉を思い起こしてしまう★10。どういうことか。

『Endtroducing…..』は全てがレコードからのサンプリング=引用で構築されているのだから、同じように全てが引用で成り立っている文学作品を想像してみたい。具体的には、高橋源一郎やいとうせいこうの試み、あるいは引用だけで構成された佐々木敦の批評文★11を思い浮かべてもよい。これらの文章を形作るプロセスには、当然のことではあるが、テキストデータをコピー&ペーストするデジタルベースの方法と、手書きで原稿用紙などに模写するアナログベースの方法が存在する。

 サンプリングとは一見、オリジナルさえあればいくらでも同一のアウトプットを複製可能とする行為であるように見える。しかしアナログベースのレコードからのサンプリング行為を、肉筆で文字を綴る行為と類比してみれば、そこには一回性が潜んではいないだろうか。ターンテーブルでレコードを回して、サンプラーでサンプリングしたフレーズ。その際のレコードのスクラッチノイズの乗り方は、使用するサンプラー、ターンテーブル、ミキサー、カートリッジ、針、針圧、電源環境、周囲のノイズ環境、気温、湿度など様々なファクターで変化する。つまり厳密に言えば、サンプリングの度に1回1回異なるのだ。同じ文字を何度書いても、毎回微妙に異なるように。加えて、この一回性があるがゆえに、筆跡と同じで、他の誰でもない、その人間がサンプリングした事実も担保される。他のビートメイカーが同じ条件でサンプリングしたとしても、DJシャドウと全く同じものにはならないからだ。つまり肉筆のビートには、一回性と、署名性が担保されている。
 一方、同じサンプリングであっても、DAW上でデジタルな波形として取り扱う場合は、完全な複製として立ち現れ、そこに一回性は存在しない★12。テキストデータをコピー&ペーストするのと同様に。このことから、ベンヤミンやマクルーハンを引用し、アウラを喪失したデジタルなビートについての議論を接続することも可能だろう。しかし現在を代表するビートメイカー、たとえばフライング・ロータスは、DJシャドウとは全く異なる方法論に立脚し、レコードからのサンプリングは行わずに、それでも、移動のサウンドトラックたる音楽を作り出し、その肉筆性を担保しているように思える。

 フレーズではなく音色そのもののレベルの、ミニマルなサンプリング。あるいは生楽器のフィーチャー。つまり演奏者の身体をサンプリングすること。あるいは自身で演奏したフレーズをサンプリングし、それをさらにリサンプリングするような手法。自身の内面を掘り進むような作業。公共のビートは利用せずに、ひたすら自家中毒的に自身からの引用を繰り返す、その手つき。

 DJシャドウの『Endtroducing…..』のリリースからちょうど10年後、2006年に彼の誕生年をタイトルにした『1983』を提げてシーンに登場したフライング・ロータスは、その後のビートメイクの文法を、脱臼させてしまった。その脱臼によって私たちは、それまで私たちがヒップホップであると信じていた景色が、より大きな世界の限られた一角を示していたに過ぎないことを知った。そのような彼の方法論の内実に潜行することを、次回の課題としてみたい。

★1 宇川直宏×黒瀬陽平「DOMMUNE vs 新芸術校! インディペンデントはどのようにアートを変えるか?──健常なオルタナティヴの歪んだヴィジョン」。東浩紀は途中から議論に参加した。URL= http://genron-cafe.jp/event/20160228b/
★2 「トリップ・ホップ」はブリストル出身のマッシブ・アタックやポーティスヘッドの音楽を発祥とする音楽ジャンルで、「アブストラクト・ヒップホップ」とも呼ばれる。BPM が遅めのヒップホップのブレイクビーツと通底するビートに、ダブ、エレクトロニカなどの要素が絡み合い、総じて抽象的でダークな音像を持つのが特徴。ヒップホップの文脈においては、DJの名を冠したアーティストであるDJシャドウ、DJクラッシュ、DJカム、DJヴァディムらの作品群が当時革命的なものであった。
★3 細川周平『ウォークマンの修辞学』、朝日出版社、1981年、131頁。
★4 John Geiger, Nothing is True ‐ Everything is Permitted: The Life of Brion Gysin, Disinformation Books, 2005, p. 273 に引用されているウィリアム・バロウズの言葉より、筆者訳。
★5 吉増剛造『GOZOノート2 航海日誌』、慶應義塾大学出版会、2016年、196‐197頁。
★6 DJシャドウ本人は、トリップ・ホップやアブストラクト・ヒップホップという呼称を嫌っており、自分の音楽は単にヒップホップだと述べている。本論では、その文脈を踏まえつつ、敢えて使用するものである。
★7 Eliot Wilder, Endtroducing… (33 1/3), Bloomsbury Academic, 2005.
★8 アメリカを中心にチェーン展開する楽器店。カリフォルニアで1959年に創業。
★9 重ねられるパートの数だけ見ると、4〜5パートから7パートへの増加は、それほど驚くべきことなのかという疑問もあるかも知れない。しかしPCではなくサンプラーを用いて、ネタのキーもテンポも丁度良くフィットさせ、さらにこれだけの音数が同時に鳴っても互いに邪魔し合わないビートに纏めることは容易ではない。
★10 石川九楊『筆蝕の構造──書くことの現象学』、ちくま学芸文庫、2003年、61頁。
★11 佐々木敦『シチュエーションズ──「以後」をめぐって』(文藝春秋、2013年)の第6章「『言葉』たち」を参照。
★12 DAWとはデジタル・オーディオ・ワークステーションの略で、PCのレコーディング/編集ソフトのこと。代表的なソフトにLogic ProやAbleton Live、Cubaseなどがある。

吉田雅史

1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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