アンビバレント・ヒップホップ(19)変声を夢見ること──ヴォコーダーからオートチューンへ|吉田雅史

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初出:2019年06月24日刊行『ゲンロンβ38』

1 地声と加工、加工と変声


 この数回の連載では、ラップと演技の関係について考察してきた。前回は特にラッパーの声にフォーカスを当てた。ラップはしゃべり声に近いのか、それとも、もっと加工された、作られた声なのか。

 多かれ少なかれ作った声色で披露される「歌」と異なり、一般的にラップは「しゃべり声」あるいは「地声」に近いため、その声色には健康状態など、様々な声の持ち主が置かれている状況が表れる。ラッパーが少なからず演技をしている場合、その声色には不慣れな俳優の演技に見られるような「恥」さえも表れうる。しかし2パックがギャングスタのペルソナをまとって(≒演技をして)ラップしていると考えると、彼がダブリングと呼ばれる声を二重に加工する録音手法を用いていることが重要だった。それは「しゃべり声」からかけ離れた、加工された声であったから、そこに「恥」が表れることはなかった。

 しかし演技をするときに「恥ずかしくない自分」を仮構してしまうと、それは本来の自分(=私)とは関係のない誰かになってしまうのではないか。だから「私を表現する」ためにも2パックはアルバムや楽曲に「恥」が表れざるを得ない「しゃべり」を配置した。結果的にそれらの「しゃべり」は彼の作品にラジオドラマのようなサウンドのみの語りが持ちうるリアリティをも与えた、というのが議論の骨子だった。

 ラップは歌とは異なり、地声を用いることで、そこに滲む様々なラッパーの状況が表出される特殊な表現方法だった。加工された声による歌では捨象されてしまうもの。それらが表現されうるのが、ラップのひとつの可能性だ。

 しかし近年、奇妙な事象が起きている。このラップの可能性と逆行するような流れが見られるのだ。

 地声と比較して「加工された歌声」というとき、「加工」をしているのはあくまでもそのシンガーの、あるいはラッパーの生の口であり、喉であり、舌である。声帯を締め付け、あるいは解放して、声色を加工すること。しかし声は、事後的にも、加工されうる。喉や口から発せられ、マイクを通る声、あるいは録音された声に対して、テクノロジーを用いて加工を施すこと。たとえばカラオケでも用いられる残響音を付加するリバーブを始め、様々なエフェクトが、ライブやレコーディングの現場で、声に対して施される。

 前者を「歌い手が加工する声」と呼ぶとすれば、後者は「機械的に加工される声」と言えるだろう。そして後者の加工に用いられる多くのヴォーカル用のエフェクトの中でも、本来の用途を超えて、ひとつの歌唱表現のスタイルとして確立されるにまでいたったものがある。「オートチューン」が、それだ。正確には、PCで音楽制作をする際に用いるAntares社製の「Auto-Tune」(一九九六年発売)を始めとする自動ピッチ修正ソフトのことだ★1。その名の通り、自動的にヴォーカルなどの音程を補正するソフトウェアなのだが、極端な設定をすると、その副産物として「ロボ声」や「ケロケロ声」と呼ばれるような効果を生む。

 いまやあまりにも当たり前になってしまったこのオートチューンを用いたヴォーカルは、RBやEDM、ロックといったあらゆるジャンルのヒット曲で聞くことができる。欧米では一九九八年にシェールがヒット曲「Believe」で用いたことがきっかけとなり、その後ゼロ年代中盤以降に広まったが、日本においても同時期にオートチューン声がトレードマークのPerfumeのヒットなどで広く知られるサウンドとなった。

 このオートチューンに対して抱くインプレッションを一言で表すなら、アンビバレントという言葉がふさわしいように思われる。流行のサウンドとして無分別に利用されヒットチャートに氾濫する様には疑問を抱く一方で、人々がその独特なサウンドに惹きつけられることには興味を持たざるを得ないからだ。さらには、歌い手の不安定な音程を正しく矯正することから、スキル不足を隠すツールとして否定的な見方ができる一方で、歌という表現に及び腰であったアーティストの背中を押し、彼らの表現の幅を広げる――地声で歌うのは気恥ずかしいが、オートチューンをかけた声なら抵抗がない――という極めて肯定的な意義を見出すこともできる。

 しかしそもそもここまで流行するからには、何か根本的な理由がないのだろうか。オートチューン声の蔓延を駆動する、端的に言えば「変声への欲望」のようなものだ。なぜ人々は変声を求めるのだろうか。

2 カニエ・ウエストの跳躍


 一口に変声を求めるといっても、ふたつの主体を考えなければならないだろう。ひとつは、歌い手側が抱く、変声への欲望。自分が慣れ親しんだ声とは別の声を獲得したい。もっと違う声で歌いたい、という欲望。そしてもうひとつは、聞き手側のそれだ。なぜシンプルに人間の声ではない声で歌われる歌を求めるのか。

 まずは、前者について考えてみたい。こんな経験はないだろうか。スマホなどの動画に映る自分の声を聞いて、それを奇妙な声だと感じてしまったこと。それは間違いなく自分自身のもののはずなのに、まるで他者のもののように、聞き慣れない声なのだ。このようなことが起こるのには理由がある。スマホのマイクで録音された声は、僕たちが普段聞き慣れている、あごの骨経由で体内を伝わる(=骨伝導)自分の声とは聞こえ方が異なるからだ。僕たちは一般的にスピーカーやイヤフォンから聞こえる自分の声を「不気味なもの」として嫌悪すると言ってもいいだろう。だから、ここに変声への欲望の萌芽を見て取ることができるかもしれない。

 しかしそのような一般人のケースとは異なり、ラッパーやシンガーといった「歌い手」は、常日頃から曲作りをし、レコーディングを重ね、録音された自分の声を聞き続けている。彼らはいわば、この「不気味な声」に慣れ親しんでいる者たちだ。だからその意味で彼らの場合は本来、変声への欲望は刺激されないはずだ。

 それにもかかわらず、歌い手が自ら変声の表現を選択し、用いた楽曲は多数存在する。ということは、そこには個々の歌い手側の動機があるに違いない。ここで取り上げるのも、ある動機により、変声を求めた歌い手の例だ。もっと正確にいえば、変声を「求めざるを得なかった」歌い手の例だ。
 いまやヒップホップの世界においても、ビルボードのラップチャートを覗いてみれば、ヒットしている楽曲の多くから、オートチューンがかけられたヴォーカルが聞こえてくる。二〇〇〇年代に入ってから、T・ペインを代表とする先駆者たちの成功により、ラップの楽曲でもフック(=サビ)においてメロディを歌いながらオートチューンのかかった声を用いるケースが増えてくる。その中でもエピック的作品が、カニエ・ウエストの四枚目のアルバム『808s & Heartbreak』(二〇〇八年)だ。

 このアルバムは、ヒップホップにおけるオートチューン活用の先駆けのひとつであるだけでなく、ヒップホップが取り扱う表現の範囲を大きく拡張してしまった。このアルバムが嚆矢とならなければ、昨今の多くのアーティストのスタイルやヒット曲は生まれなかったかもしれないのだ。

 カニエ自身、以前の三枚のアルバムで不動の評価を得ていたにも関わらず、築き上げた過去の遺産を自ら捨て去るように、全く新しいスタイルを披露した。その姿勢は極めて勇敢であると同時に、向こう見ずなものだった。

 それでは彼が捨てた遺産とは何だったのか。まず彼は、サンプリングを捨てた。そのサンプリングのセンスが高く評価され、プロデューサーとしても多くのヒット曲を手掛け、引っ張りだこの状態であったにも関わらず、彼は愛機のサンプラー、ASR-10を捨てた。つまり、自身が一番得意としていた楽曲制作のスタイルを捨てたのだ★2

 その代わり彼が手に取ったのは、本作のタイトルにも含まれているTR-808というリズムマシーンだった。だからこのアルバムにはサンプリングされたフレーズはわずか三つしか現れない。そして全編に通底するビートは、いわゆるヒップホップ的なもの――たとえばブレイクビーツやブーンバップと呼ばれるビート――とは大分質感を異にしている。TR-808の低音の効いたキックやタムの音を太鼓のように乱打する、もっとプリミティヴで、トライバルと言っても差し支えのないものなのだ★3

 そしてもうひとつ、彼が捨てたものがあった。それは他でもない、ラップだった。

 ヒップホップのアルバムで、ラップを捨てる? それがインストのアルバムなら、ありうるだろう。しかし本作にインストの楽曲は見当たらない★4。収録されている──曲全てが、カニエの言葉で埋め尽くされているのだ。しかしそれは従来のラップとは異なる。彼は「しゃべり声」に近い声でラップするのではなく、「歌い手が加工する声」でメロディをつけながら歌っている。さらに全編にわたって、オートチューンを深くかけるだけでなく、フィルターでこもらせたり、あるいはオーバードライブで歪ませた「機械的に加工された声」で歌ったりしている。

 ゼロ年代は、歌とラップの区別が曖昧になる時代だ。ドレイクのように、その両方で見事な表現のできるアーティストが増えることによって、両者の区別はより曖昧なものになる。本作をそのようなシンギング・ラップの作品として捉えるのは容易い。本作を埋め尽くすのは、メロディを伴った、シンプルに「歌」と呼んでも差し支えのないライムである。カニエは本作を、マイケル・ジャクソンのアルバムのように、チャートで一位になるような、メロディを持ったものにしたかったと言及している。

 しかし彼がこのような表現を取ったことには、止むを得ない理由があった。言ってみれば彼は断腸の思いで、「しゃべり声」に近いラップでの表現を捨て去らざるを得なかったのだ。どういうことか。

 二〇〇七年に相次いで彼を襲ったのは、フィアンセとの別れ、そして彼のマネージャーでもあった最愛の母親の急逝だった。そのような経験の最中で制作に向き合った彼が紡ぎだしたリリックは、元フィアンセとの別れの顛末に言及しつつ、ときにネガティヴな感情を直接的にぶつけながら、彼女に、そして彼女との記憶に、別れを告げるものが中心だ。そしてアルバム本編のラストを飾る「Coldest Winter」は、母親に捧げられている。しかし元フィアンセと母親の不在はときに互いに混濁し合い、ときにカニエの歌声は何よりも自分自身に言い聞かせる言葉のようにも聞こえる。そして彼は、自分の地声でそれらを歌うことができなかったのだ。

 カニエにとって、自分自身の声で録音された楽曲群を何度も聞き直したり、あるいはライブでベタに何度もその歌詞をなぞり、繰り返し繰り返し同じ悲しみと失意の中を生きるのは、耐えがたいことだった。だから彼は、その声を少し変えることで、そこに第三者性を担保させようとした。変声とは、ある意味で自己とはぴったり重ならない声を持つことで、自身に降りかかった状況を、メタレヴェルから見下ろすことではないか。第三者の視点=ロボ声で、それを物語にして歌ってしまうことは、ある種の癒しとなるのではないか。

 このとき変声とは、歌い手がある種のエモーションから解放されるための、行き場のない感情の逃げ場として機能している。だから歌い手は、特殊な状況に置かれたとき、変声を求める。

 それではこのとき、オートチューンはどのような役割を果たすのだろうか。

 カニエにとって極めて切実な現実である物語は、自己との同一性が揺らぐような声で歌われることによって、ある意味でフィクショナルな位相を獲得するのではないか。少し突っ込んで考えてみたい。

 オートチューンが深くかけられた声と、地声を比較すると、具体的には何が異なるのか。僕たちは実際にところ、何を聞いているのか。オートチューンとは、その名の通り、自動的に(=オート)音程を矯正する(=チューン)ソフトウェアだ。その楽曲のキーを設定することで、そこから外れる音は、全てキーの通りの高さに補正される。つまり、ピアノなどで弾いた実際のメロディの音程に対して、少しシャープしたりフラットしたりする音を外している歌声も、少なくともピッチの面においては完璧なものに矯正される。それを逆手に取り、ソフトのパラメータ設定を極端にすると、たとえばC付近をうろつくような中途半端な高さの音は、高い方のDに振られるか、あるいは低い方のCに振られ、にわかに矯正される。そのため、結果メロディがCとDの間を極端に行き来するような場合に、ロボット声やケロケロ声と呼ばれるような奇妙な効果が付加される。

 この「奇妙な効果」とは「フィクショナルな声」と言い換えられるだろう。だからこのような声で語られる物語にも、フィクションが滲む。カニエは実際に自分の身に降りかかった悲劇を客観視し、距離を保つ必要があった。だから、その悲劇にフィクションの位相を与えようとした。まずはそのように理解できないか。

 さらに言えば、カニエはいわば極度の悲しみとストレスによりラップの言葉を失う病(=失語症)を発症してしまったのかもしれない。彼は「しゃべり声」を失った。全ての言葉はただでさえ「歌い手が加工する声」である歌声で発せられ、さらにそこへオートチューンによる「機械的な加工」が上塗りされる。そこに彼の「恥」が表れる隙はない。

 しかしカニエのオートチューンがかけられた声からは、それでもまだ、エモーションが溢れてしまっている。だからオートチューンとは、声を加工することで恥を見せることなく、エモーションを発信する(=上手に演じる)装置といえる。それは歌い手の言葉による物語にも、歌い手の声自体にも、フィクショナルな位相を与えるのだ。

3 ロボ声に宿るエモさ


 次に考えたいのは、聞き手がなぜ、変声を求めるのかということだ。人々はなぜ、ロボット声の歌を受け入れるのか。

『808s & Heartbreak』リリースの翌年である二〇〇九年、カニエ・ウエストがジェイ・Zのアルバム『The Blueprint 3』の制作に参加中、オートチューンに異議申し立てをする曲のアイディアを思いついたという。そこで彼らはアルバムに収録予定だったオートチューンを使った曲を取りやめ、その代わりにオートチューンの乱用を批判する「D.O.A(Death Of Auto-Tune)」を制作したのだ★5。この曲のオートチューンに皆うんざりしているというメッセージは賛否両論の反応を引き起こしたが、オートチューン流行の一端を担ったカニエですらオートチューン批判を発想するほどに、ロボット声は蔓延していたのだ。

 確かにオートチューン声が登場した当初は、それはいかにも機械的で魂のこもっていない声だと揶揄されることも多かった。しかし結果的には広く一般に受け入れられる表現方法となったのであり、そのサウンドには人々にアピールする普遍的な何かがあるに違いない。人々はしばしば、ラッパーやシンガーの生の声よりも、オートチューンで機械的に加工された声に、熱狂する。そこに、エモーションを感じている。それでは、機械化された声にエモーションを感じるとは、一体どういうことなのか。

 一般的な考え方はこうだろう。歌い手の生の声に宿っているエモーションは、その声が機械化されることによって、減衰してしまう。機械化された声とは、平板化された、感情のないロボットのような声のはずだ。にもかかわらず、このような感情のない声を、人々はなぜ求めるのだろうか。

 この問いに答えるために、人々の変声への欲望が顕在化した経緯を見ておきたい。テクノロジーを用いて、自分の声を変えたいという欲望。それはいつから始まったのだろう。

 一般的にオートチューンの祖先は、ヴォコーダーだといわれる。これは音声通信のために人間の声を圧縮する装置で、一九三〇年代に実用化された。しかし当時の技術では圧縮された人間の声を完全に復元することができなかったため、結果として、ロボット声が生み出されることとなったのだ。

 しかし皮肉なことに、人々が持つ、ロボット声でしゃべってみたい、あるいは機械にしゃべらせたいという欲望により、この装置は本来の用途を離れ、人間の声のエフェクターとして活用され始める。そして一九四〇年代頃から、まずは映画やコマーシャルなどの世界で、人工的なロボ声が耳にされるようになる。

 当初、ヴォコーダーは個人が所有するにはあまりにも高価な代物だった。しかし七〇年代以降、庶民にも手の届くものになると、ロボット声は音楽の世界でも響きわたるようになる★6。それは人間の声をベースにしつつも、そこにシンセサイザーのサウンドと音程を合成し、機械的なサウンド効果をもたらす。それまで「しゃべり」中心だったロボットたちは、鍵盤で弾いた音程通りに「歌う」ようになるのだ。それはクラフトワークやジョルジオ・モロダー、ニール・ヤングなど、様々な時代の最先端をいくアーティストたちの楽曲に用いられるようになる。アメリカの音楽ライターであるデイヴ・トンプキンズの著書『エレクトロ・ヴォイス』に詳しく記述されているように、ヒップホップにおいては、アフリカ・バンバータなど、エレクトロ・ヒップホップと呼ばれるヒップホップ初期のジャンルで多用される★7

 六〇年代にシンセサイザーが普及すると、その後もヴォコーダーやリズムマシーン、サンプラーと次々に新しい機材が開発され、音楽に用いられる。つまり当時は、科学技術の進歩と、時代の最先端をいく音楽ジャンルや表現が分かちがたく結びついていた時代であった。人々はロボット声に、未来の科学技術が人類にもたらす希望を託していたのだ。

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 しかし実はヴォコーダーは、音楽とは関係のない起源を持っていた。

 一九二八年、ベル研究所によってヴォコーダーの基本的な考え方が提案された。ヴォコーダーは実ははじめは、巨大な暗号機として考案されたのである。暗号化には、人の声の周波数を一〇の帯域に分割して送信し、受け手がそれを正しい順序で合成する仕組みが採用された。さらにこの暗号化/復号化に際しては、送信側、受信側にそれぞれ二台ずつのターンテーブルを設置し、ノイズを録音したSIGGRUVと呼ばれるレコードが用いられた。レコードのノイズは一二分間しかもたなかったために、長時間の利用も考慮して二台のターンテーブルが用意されたのだ。後にヒップホップの黎明期のエレクトロ時代にヴォコーダーが重宝され、そのロボット声を大きくフィーチャーしたレコードがDJたちによって同じく二台のターンテーブルに載せられることを考えると、これは偶然の悪戯とはいえ興味深い。

 四〇年代初頭、盗聴に頭を悩ませていたアメリカ政府は、ベル研究所に協力を要請した。その結果、第二次世界大戦時にヴォコーダーはSIGSALY、別名「Xレイ」と呼ばれる暗号化システムとして、各国のトップたちの極秘の会話に用いられることとなったのだ。世界各地に一二の端末が設置され、一台あたりの制作費は一〇〇万ドル以上、その重量は平均で五五トンだったという。この巨大な暗号機を介して、ルーズベルト、トルーマン、チャーチル、アイゼンハワーらが世界を動かす会話を交わしたといわれている★8

 つまりヴォコーダーの本来の目的とは、「暗号化」にあったのだ。しかしそれはよく考えてみれば当然のことだ。「ヴォコーダー」とは、「声を暗号化する」という意味の通り、「Voice+Coder」の略称なのだから。そしてその目的は、オートチューンにも引き継がれている。

 これを念頭に、もう一度カニエの『808s & Heartbreak』の例に立ち返ることで、オートチューンがもたらしたものについて考えてみたい。

 カニエは自身の声を、なぜオートチューンで加工したのだったか。彼がこのアルバムで何よりも望んだのは、元フィアンセと母親に向けて自分の言葉を届けることだったに違いない。そのためには、普通に考えれば、地声を用いて彼女らへの直接的なメッセージを歌うだろう。しかしカニエはそうすることに耐えられず、オートチューンを使った。オートチューンはカニエの地声にロボット声を重ねる一方で、彼の声から固有性を剥ぎ取る。ロボット声はオートチューンの設定次第で、誰にでも重ね合わされる。設定が深ければ深いほど、誰が使っても、同じような声に聞こえる。その意味で、彼の声は半分匿名化されている。

 しかしここで声が「匿名化される」ことは、ふたつの意味を持っている。ここでも歌い手と聞き手、ふたつの主体別に考えてみたい。第一に、歌い手側、特にヒップホップの文脈でラッパーにとっての意味を見てみよう。

 オートチューンが深くかかった「誰のものでもない声」とは、サンプリングやブレイクビーツといったヒップホップに欠かすことのできない要素と同様に、ダンスフロアやストリートに提供される半ば共有財産のような価値を持っている。トリーシャ・ローズは、ヒップホップ研究書のクラシックである『ブラック・ノイズ』の中で、ヒップホップという文化の特徴を、次のような対立項で示している。ラッパーは、極めて「個人」的な物語を語ると同時に、ボースティングやシグニファイイングといった口承の作法を用いて「集合」的な記憶をも背負っている★9。これは、冒頭でも言及した2パックが、ダブリングを用いて共同体の記憶を、自身が書いたリリックによって代弁したことにも表れていた。

 そしてこれはラップのリリックだけでなく、ビートにも当てはまる。過去のブラックミュージックが蓄積してきたグルーヴは、サンプリングの手法によって、集団的記憶として現前する。バベルの図書館のように無限を錯覚させるほどの音源アーカイブは、ビートメイカーたちに開かれている。カニエは抜群のサンプリングのセンスを武器に、数々のクラシックと呼べるビートを生み出し、それらはまた、後世のダンスフロアでも人々を躍らせることになる。つまりこれと同様にカニエは、オートチューンのかかった声を「集団的な」表現手法として、数多くのラッパーたちに開いたのだ。

 そして第二に、聞き手の側から考えるとどうか。オートチューンのかかった声は、ヒットチャートを飾るような楽曲群から度々聞こえてくる流行で「匿名の」サウンドだといえる。ここでいう「匿名の」とは、「ポップな」と同義かもしれない。カニエが地声を使って、彼の悲痛な胸の内を歌ったとしたら、そこには切実な感情が直接に表れるだろう。その場合、そこに受け入れがたい過剰さを感じるリスナーもいるかもしれない。しかし実際に送り出されたのは、カニエの名前が半分剥ぎ取られ、匿名の機械化された(=標準化された)サウンドだった。だからこそ、どんな聞き手にも、受け取りやすいものとなった。歌声から、ある種のエモーションが削がれることで、ポップさを獲得したのだ。

 逆に、次のように言うこともできるだろう。本当の切実さや過剰な感情は暗号化され、オートチューンがもたらすロボット声の内側に匿われるのだと。

 以上のように、ヴォコーダーが本来持っていた暗号化の機能は、それを用いる歌い手にとっても、聞き手にとっても、ロボット声に象徴される形で、オートチューンに確実に受け継がれていた。

 最後に見ておきたいのは、これだけオートチューンが蔓延した背景にある、もうひとつの、歌い手側の目線だ。

 前述のように、録音された自分の声に対する「不気味さ」に慣れている歌い手は、その意味では変声への欲望を駆動されないはずだった。確かにカニエのように、止むに止まれぬ事情を抱えている歌い手も存在した。しかし多くの歌い手がオートチューンにより変声への欲望を実現しているように見えるし、それは単なる流行だからというだけでは片付けられないだろう。

 ではそこには一体どんなメカニズムが働いているのか。

 オートチューンとは、見ようによっては、人の地声に対して無理やり着用させる、拘束着のようなものだ。ラッパー/シンガーの声は、定められたキーとスケールに無理やり整列させられる。しかしこの矯正は、副産物をもたらす。その副産物が、ロボット声だった。だからロボット声とはいわば、拘束着からはみ出す肉の塊だ。ロボットの冷たい金属の輪郭からはみ出す余剰としての身体が、逆にロボット声と呼ばれる所以なのだ。

 そしてこの「ロボット声」とは歌い手からの目線で見れば、自分の声が本来持っている「不気味さ」を刺激するものだ。内面化されている自身の声の不気味さを、改めて思い起こさせる、声。

 歌い手はもはや、骨伝道で聞こえていた声のイノセントな響きに、身を委ねることはできない。彼らは自身の声の不気味さに気付いてしまっているからだ。いや、気付いてしまっているだけではない。それを内面化してしまっている。しかしロボット声が、圧倒的な他者として現れるとき、歌い手は思い出すだろう。自分の声の他者性に。拘束着から逃れ出る、肉の塊に。

 そのとき歌い手は、いや、ラッパーは、言葉の意味から切断された肉の塊としての声を、自覚するだろう。ビートの間を、五線譜の間を、自由に跳ね回り得る肉の塊の躍動を、自覚するだろう。彼らはオートチューンの蔓延を経て、ラップの声の躍動を、再発見するだろう。

 そして肉の塊としてのラップの声の身体性を、これ以上ない武器として使いこなす次世代のラッパーが、現れるだろう。彼は新しいヒップホップのモードを、牽引するだろう。

 そのようにして立ち現れたラッパーの存在からは、いまヒップホップが、どのような曲がり角に差し掛かっているのかが、見えてくるだろう。次回は、いまのヒップホップが孕む多様性の核心に、迫っていきたい。

 


★1 「Auto-Tune」はAntares社製のピッチ修正ソフトの名前であり固有名詞だが、この他にもCelemony社の「Melodyne」やWaves社製の「Waves-Tune」など同様の機能のソフトウェアが存在する。一般的に総称で「オートチューン」と呼ばれているため、本論でもそれに倣っている。
★2 エンソニック社より一九九二年に発売されたサンプラー。その太くて粗い音質によりヒップホップのビートメイカーに愛用者も多い。
★3 ローランド社より一九八〇年に発売されたリズムマシーン。通称「ヤオヤ」。発売当時はエレクトロと呼ばれるオールドスクール・ヒップホップのサウンドに用いられた他、テクノポップやニュー・ウェーヴのアーティストたちに利用されることが多かった。近年様々なジャンルで再評価が進んでいるが、特にトラップを象徴するサウンドのひとつとしてその存在感を増している。
★4 純粋なインストの楽曲は収録されていないのだが、たとえば一曲目の「Say You Will」は全部で六分一七秒の曲だが、カニエの歌が入っているのは前半の三分ほどで、後半のまるまる三分以上はまるでカラオケヴァージョンのように、最小限のバックトラックだけが収録されている。これは普通の楽曲構成としては明らかに不自然であり、フィアンセの不在に対する沈黙や母親に対するカニエの黙祷を想起させる意味でも、非常に示唆的だ。
★5 同曲が収録された『The Blueprint 3』の一五の楽曲のうち七曲にカニエはプロデューサーとしてクレジットされているが、同曲のプロデュースはNO.I.D単独によるもの。
★6 比較的安価なヴォコーダーとしては、一九七〇年代に相次いで発売されたEMS社のVocoder 2000、ゼンハイザー社のSM-201、コルグ社のVC-10、ローランド社のSVC-350などが挙げられる。
★7 デイブ・トンプキンズ『エレクトロ・ヴォイス――変声楽器ヴォコーダー/トークボックスの文化史』、新井崇嗣訳、二〇一二年、スペースシャワーネットワーク。
★8 スターリンもまた、自身の会話の機密を守るために喉から手が出るほどこれを欲していた。彼のためにヴォコーダーの開発に携わった人間の中には、あのソルジェニーツィンも名を連ねていた。九年間の収容所生活の中で、マルフィノの収容所時代に、ヴォコーダーの開発に従事した様子が、『煉獄のなかで』に詳しく描かれている。
★9 トリーシャ・ローズ『ブラック・ノイズ』、新田啓子訳、みすず書房、二〇〇九年、一八〇頁。

吉田雅史

1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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