アンビバレント・ヒップホップ(5) この街に舞い降りた天使たちの羽根はノイズの粒子でできている|吉田雅史

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初出:2016年09月09日刊行『ゲンロンβ6』

1. ロサンゼルスというトポス


 ロンドン大学とインペリアル・カレッジ・ロンドンの調査によれば、アメリカにおいて、この50年間で最も大きな影響力を持ったジャンルは、ヒップホップ、つまりラップ・ミュージックだという★1。日本でもここ最近、「日本語ラップ・ブーム」という言葉を耳にする機会が増えた。日常的に耳にする楽曲の中に、ラップ・ミュージックそれ自体はあまりなかったとしても、それが齎した影響が見て取れる楽曲は決して少なくないだろう(ループ構造、サンプリング、歌唱法など)。アメリカのみならずイギリス、フランス、ドイツなど欧州各国や韓国、日本など東アジアでも商業的に成功を収め、広く認知されているヒップホップはしかし、その誕生から長きにわたりある地域に限定された物語だった。その誕生の地でもある、ニューヨークである。

 1970年代のニューヨークのサウスブロンクス。ブロックパーティの現場などで産声を上げたヒップホップ文化の1つが、MCing=ラップであった。その発展の物語においては、各地域を代表するクルーの間の対立(=ビーフ)も生まれたが、それらは全てニューヨークのファイブ・ボローズ★2内での出来事であった。しかし80年代後半から、ロサンゼルス出身のMCたちが活躍し始め、90年代には西海岸のヒップホップを代表する様式となるGファンク★3が花開き、ギャングスタ・ラップが商業的な成功を収める。ニューヨークの地域間の対立は、ニューヨーク対ロサンゼルス、つまり東海岸と西海岸の対立に軸を移す。

 当初はプロレス的なエンタメとして需要された東西間の対立は、やがてカオティックで制御不可能なものとなってゆく。そして虚構と現実の境が曖昧になったことの最悪の帰結として、私たちは西海岸の2パック、東海岸のノトーリアス・B.I.G.というヒップホップシーンにおいて極めて重要な才能を失うことになる。東西抗争は多くの教訓を残して終結を迎える。その後も東西の2つの街は重要なアーティストと作品を世に出し続けるが、一方で90年代後半に米国南部から現れていた、サザンラップ★4の興隆が始まる。その延長線上でアトランタを発祥として生まれたトラップが、現在進行形のシーンにおいては、最も影響力を持っている★5

 しかし改めて米国のシーンを見渡せば、ロサンゼルスにこそ、重要なトポスの磁場を感じずにはいられない。何故か。それは、現在最もエッジィで重要な仕事をしているMCであるケンドリック・ラマーと、ビートメイカーのフライング・ロータスが、どちらもロサンゼルス出身であるからだ。そして、両者はそれぞれ『good kid, m.A.A.d city』(2012年)、『Los Angeles』(2008年)というロサンゼルスを舞台とした作品をリリースし、それぞれが彼らの代表作であると同時に、時代にその名を刻むクラシックとして評価されている。この2つの才能が、何故ニューヨークではなく、ロサンゼルスから現れたのだろうか。あるいは、何故ロサンゼルス出身の2人が、シーン全体を牽引するような仕事を成し得たのだろうか。

2. コーティングされた要塞都市


 まずは、連載前回の末尾で予告した通り★6、フライング・ロータスの仕事に迫ってみたい。私たちは前回、DJシャドウの歴史的名盤『Endtroducing.....』(1996年)を取り上げ、サンプリングをベースとした「移動のサウンドトラック」とでも言うべき同作が、ラップ=言葉なしで如何に物語を生み出しているかに着目した。DJ的な視点で、世界中の多様なジャンルの音源を繋ぎ合わせるサンプリングのエンサイクロペディアを生み出し、水平方向に広がる世界の広大さを示すこと。そのような目論見を具現化したのが『Endtroducing.....』であった。一方、DJシャドウのビートとは対極にあるフライング・ロータスの作品は、ヒップホップを考察するにあたり、極めて重要なトポスの特異性を炙り出しているように思われる。『Los Angeles』が、文字通りロサンゼルスという街を垂直方向に掘り下げ、ビートで解読する作品だからである。

 エイフェックス・ツインやスクエアプッシャーとともに、J・ディラやマドリブに影響を受け、さらにはジョン・コルトレーン(そしてアリス・コルトレーン)の甥にあたるフライング・ロータスことスティーヴン・エリソンのスタイルは、まさにテクノとヒップホップ、そしてジャズのハイブリッドである。『Los Angeles』に顕著な、スティーヴンのビートの構造上の特徴は、とにかく数多くのサウンドがレイヤー状に重ね合わせられる点である。分析を拒んでいるかのような、過剰なレイヤーと音数のために霞がかかったような見晴らしの悪いビートは、LAという街が内包する多様性を示しているようでもあり、スティーヴンの複雑怪奇な音楽的バックグラウンドを写したモンタージュ写真のようでもある。

 かつてエイゼンシュテインは、彼の映画制作の方法論であるモンタージュを、映像のみの「水平」のモンタージュと、音声と映像による「垂直」のモンタージュに分類した。サンプルネタをショットのアナロジーと捉えた上で、この彼の用語を借りて、時間軸に沿ったサンプルネタ同士の連結を「水平」のモンタージュ、同時に複数のサンプルネタをレイヤー状に重ね合わせることを「垂直」のモンタージュと呼んでみたい。

 DJシャドウによる『Endtroducing.....』で瞠目に値する点は、「垂直」のモンタージュの組み合わせの妙を提示しつつも、文脈を共有せず突然接続されるブレイクビーツや声ネタの数々による「水平」のモンタージュを、かつてないレベルで成功させたことだ。そしてそれが物語の抑揚を生んでいた。一方、スティーヴンの『Los Angeles』におけるエッジィな試みの1つは、「垂直」のモンタージュを限界まで重ね合わせることだった。キック、スネア、ハットやその他のエスニックなパーカッションが刻むビートと、うねるようなシンセベースがファンクを体現し、その上に幾重にも重ねられたシンセのコード、アルペジオ、ヴォーカルフレーズがしばしば「スペイシー/コズミック」と言及される彼のサウンドを形成する。そしてその多数のレイヤーを積み重ねること、あるいは差し引くことで、DJシャドウとはまた違った物語の起伏が作り出される。

 その試みは、ある副産物を生み出した。スティーヴンは垂直方向に発達させたモンタージュ全体をホワイトノイズ(「シャー」と鳴るノイズ)とスクラッチノイズ(「プチプチ」と鳴るノイズ)でコーティングしたのだ。この『Los Angeles』と命名されたアルバムは、冒頭のスティーヴンのフェイバリットであるボーズ・オブ・カナダを想起させられる壮大なシンセのコード弾きから、最後の曲のローラ・ダーリントンの歌声に寄り添うオルガンの様なサウンドまで、一貫してノイズに覆われている。このノイズの正体は、一体、何なのだろうか。

 この問いの答えを求めるにあたり、検討すべき仮説は2つある。1つめは、スティーヴンがこの作品全体を、意図的にノイズで覆ったのだとする仮説。そして2つめは、彼が無意識的に選択したサウンドが、偶然にノイズを纏ったものだったとする仮説である。

 まずは、2つのうち後者の、無意識の発露であるとの仮説を検討しよう。そのために、私たちはラカンのL図を引き合いに出すことができるだろう。このノイズこそは、スティーヴンの深層=無意識からのメッセージであり、自我によって抑圧された無意識的願望の顕現、いわば「言い間違い」のようなものではないかという仮説である。言い間違いとしてのノイズ。フロイトによれば、言い間違いのメカニズムの1つは、普段隠そうと抑圧しているものが、その思いとは裏腹に「言い間違い」という錯誤行為の形で表に出てしまうというものだ。ノイズとはスティーヴンにとって、抑圧されたものだったのだろうか。

吉田雅史

1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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