アンビバレント・ヒップホップ(13)RAP, LIP and CLIP──ヒップホップMVの物語論(後篇)|吉田雅史

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初出:2018年04月20日刊行『ゲンロンβ24』

後篇

6 その唇、ズレていませんか?


 直近2回分の連載では、ヒップホップのMVに映り込む映像と、リアルの関係を考えてきた。特に前回は、MVを成立させるため──音と映像をつなぐために──「リップ・シンク」という技術が欠かせないことを確認した。しかし「リップ・シンク」は言い換えれば「口パク」なのだから、それは虚構である。考えてもみてほしい。MV撮影のためとはいえ、生のラップではなく口パクする姿が無数に──それこそ何億回も──YouTubeで再生されることは、MCたちが標榜するリアルと言えるのか。このことをどう考えれば良いのか。この矛盾を、どのように乗り越えれば良いのか。それが問いだった。

 結論から先に言えば、これはあえて超える必要のないものである。この虚構性は、ヒップホップのリアルにとって超えるべきものとして立ちはだかっているわけではないのだ。むしろ逆に、ヒップホップのリアルに寄与しているとさえ言える。

 なぜそのような結論が導き出されるのか。順番に考えていきたい。

 リップ・シンクについて考察する上で、日本とアメリカではその捉え方の違いがあることは注目にあたる。細馬宏通は著書『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』の中で、アニメーションのセリフの録音について考察している。細馬が指摘するのは、日本ならではの特殊な事情だ。私たちは、洋画の吹き替え文化を持ち、浄瑠璃のように口を動かさない人形が話すことに慣れている★1。もし口の動きとセリフがズレていたとしても、僕たちはそこに違和感を覚えないのだ。つまり、日本ではリップ・シンクへのこだわりが比較的少ないと言えるだろう。

 一方でアメリカでのリップ・シンクの捉え方は、例えばアニメーション制作における日米でのアプローチの違いに象徴的に現れている。日本では絵が先行し後からセリフをつけるポストシンク(アフレコ)が取られるのに対し、アメリカでは先にセリフを収録し、そのセリフに後から絵をつけるプレシンクの手法が一般的だ。つまり後者はセリフとアニメキャラの口の動きが正確にシンクロするような作り方をしている。アニメのキャラクターが話をするときの口の形も、高いシンクロ率を担保するため、アメリカでは日本よりもパターン数がずっと多いという。アメリカでは、精緻なリップ・シンクにこだわりを持っているのだ。

 そしてMVとは、プレシンクのメディアである。アーティストによる楽曲が先に存在し、それに映像をつけるのだから当然だ。すると、上記のようにアニメのプレシンクという文化をあらかじめ有しているアメリカでは、セリフに対してアニメーションを「後付け」するように、MVにおいても楽曲に対して映像を付加するのだろうか。両者の方法に類似は見られるのだろうか。

 90年代のアメリカにおける、とあるMV作家の登場が、この両者の類似性を、鮮烈に示してくれる。

7 ハイパー・シンクロナイゼーション


 ハイプ・ウィリアムスは、90年代前半からいくつかのストリートをモチーフとしたMVを制作して経験を積み、90年代後半になるとより商業的に成功したアーティストたちの諸作品★2で名を上げた映像作家だ。彼の登場以前と以後でヒップホップMVの様相は変わってしまったと言われるくらい、ヒップホップに限らず、MVの有り方に大きなインパクトを与えた奇才だ。

 ハイプの革新性は数多くあるが★3、MVがプリレコのメディアであるという先ほどの観点から考えると、彼の作品の大きな特徴は、音と映像のシンクロの追求にあると言える。両者のシンクロをMCの唇=リップ・シンクが担保しているというのがこれまでの議論だったが、ハイプは唇を「拡張」したのだ。

 しかしこれには説明が必要だろう。

 音と映像のシンクロを、MCの唇以外のものでも図ること。バンドのMVであれば、彼らの演奏の当て振りによってシンクロ率を上げられるだろう。しかしヒップホップにおいて、バックトラック(=ビート)はサンプラーや機材でプログラムされており、それをリアルタイムに「演奏するプレイヤー」は存在しない。だから彼らが映像に映り込んで「当て振り」をすることで、映像と音のシンクロを強化することもできない。ではヒップホップのMVにおいては、一体何をもってして、このシンクロ強化を実現できるのか。

 この問いに応答するために、視覚に関する研究で有名なマーク・チャンギージーの議論を援用したい。彼は著書『〈脳と文明〉の暗号』の中で、言葉と音楽の起源について独自の論を展開している。彼はその中で、視覚と聴覚の連関性を指摘する。人間は聴覚だけで、視覚イメージを想像することができる。木の葉のそよぎ、猫の鳴き声、空気銃の発砲音から、その音の「見かけ」を空想し、どんな姿が正しいかを視覚に尋ねてみることができるのだ★4

 それは自然音に留まらず、音楽においても同様だ。ある楽曲を聴いて、どんな「見かけ」がふさわしいかを想像することもまた、可能なのだ。チャンギージーの慧眼は、そのような意味で、MVとは音楽の「振り付け」であると指摘していることだ。MVの多くには人間が登場しており、音楽に合わせてダンスをしている。そして音楽に対して、その動きは適切なタイミングで、適切な動作をしているというのだ。もちろん多くのMVが制作されるのは、ポピュラー・ミュージックの類であるのだから、それらはダンサブルなもの(=ポピュラー)であるだろう。さらには、そもそもMVはプロモーション用途なのだから、宣伝対象のアーティストを含めた人間がその映像に登場するのは当然のことだろう。しかしこの指摘を念頭にハイプのMVを見てみると、多くのことに気付かされるのだ。

吉田雅史

1975年生。批評家/ビートメイカー/MC。〈ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾〉初代総代。MA$A$HI名義で8th wonderなどのグループでも音楽活動を展開。『ゲンロンβ』『ele-king』『ユリイカ』『クライテリア』などで執筆活動展開中。主著に『ラップは何を映しているのか』(大和田俊之氏、磯部涼氏との共著、毎日新聞出版)。翻訳に『J・ディラと《ドーナツ》のビート革命』(ジョーダン・ファーガソン著、DU BOOKS)。ビートメイカーとしての近作は、Meiso『轆轤』(2017年)プロデュース、Fake?とのユニットによる『ForMula』(2018年)など。
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